宗教家のすがいんです。
我慢と辛抱の違い、そして、信心辛抱について思うところを書いてみたいと思います。
我慢と辛抱
【 我慢とは…… 】
本来は仏教語で、サンスクリット語「mana(マーナ)」の漢訳。
仏教では、自己に執着する強い自我意識「我執」から起こる心や、自分を高く見て他を軽視する思い上がりの心を「慢」と呼ぶ。このような心理状態を7つに分けて七慢というが、その一つが「我慢」。
それが転じて、我意を張ること、強情の意となり、さらに弱みを人に見せまいとする態度とみられ、近世後期ごろから現在使われている我慢の意味となった。
「 我慢 」という言葉、思い上がりの心から来ているのですね。今回調べてはじめて知りました。次に辛抱は……
【 辛抱とは…… 】
[名](スル)《仏語「心法」からか。「辛棒」とも当てて書く》つらいことや苦しいことをがまんすること。こらえ忍ぶこと。「もう少しの―だ」「この店で一〇年間―してきた」
こちらにも「 がまん 」が出てきました。
けれど、「 もう少しの…… 」とあるように、少し前向きのような感じがしますね。
そして、いよいよ信心辛抱です。
辛抱と信心辛抱
これは神さまと一緒に辛抱させていただくということ。一人じゃないってことですね。
いきなり、神さまと言われても、感じることも難しいでしょうから、はじめは、目に見える生身の人、取次者の先生( 僕のお役です^^ )と一緒に、辛抱させていただくことで、自然と「こういうことか」と分かってくるようになると思います。
信心されている人の中にも、マジメな人ほど特に、「 ○○すべき 」とか「 ○○しなきゃいけない 」など、コレが正解と言わんばかりに、ガムシャラに突き進む方もおられますが( 結構僕もそうでした、今もどうでしょうか^^; )、ややもすると「 それ我慢してない?」と言いたくなるようなときがあったりします。
大切なのは、どこまでも信心辛抱です。辛抱させていただくということですね。
先師は辛抱のことを『 神抱(しんぼう)』とも表現され、字のとおり、神さまを抱いて何事もさせていただくということなんですね。
多用はくどい。「 させていただく 」の使い方|対「 人 」だからおかしく思えるのでは……|宗教家の書くブログ |
おわりに
金光教の教師になってすぐ、我慢と辛抱の違い、さらには辛抱と信心辛抱の違いを教えてもらったことを思い出します。
神さまと先生( 取次者 )と一緒に辛抱させていただく。「一緒に」というところが何ともありがたいところなんですよね。
今回の大きな収穫は、我慢の意味をあらためて知れたことでした^^思い上がりの心から来ているものとは……。。
思い上がりではいよいよ危ないということですね^^;ひとたび心が折れてしまったらしんどくなることこの上ないことでしょうから。
いかがでしょうか。