宗教家のすがいんです。
他人の目が気になるっていうことがありませんか。そのことについて思うことを書いてみたいと思います。
他人の自分に対する目が自分の中心に
わたしも今でこそ少なくはなりましたが、以前はとてもありました。他人の目を気にする自分、ということです。
他人の目を気にする自分、書いているだけでも少し嫌な気分にもなるのですけれども、これ、やめなさいと言われてもやめれらるというモノでもないなぁと今でも思います。
わたしの場合はどうだったかなぁ、どうして少なくなったかなぁということを思いますと、「 まだまだ未熟なわたしの意見なんて言わないほうがいい…… 」と、自分の考えを押し殺していたように思います。つまり自信がなかったんでしょうね。
自分で自分のことが信じられない。けれども他人もそんなに信じていなかったと思います。自意識も強かったですし。自信もないのに自意識は強くて……「 俺だって本気出せばやれる 」が口癖でもありました。
今思うのは信じ方も知らなかったようにも感じますが。じゃあどうして知るようになったか、やっぱりお取次をいただき教えていただく中でその何とも言えない周りの目が気になる心は次第に落ち着いてまいりました。整っていったという表現が合っているように思います。
どうして?と言われてもコレというものもないのですが。言葉にするなら師に受け止めてもらった経験が大きかったです。神さまにはもちろんそうなのですが、肝心なのは生身の人間に丸ごと受け止めてもらうということだろうと思います。
いのち全体で受け止めてもらう
アクションとしては、堅い握手をしてもらったり、頭をなでてもらったり、わたしが辛いことを思い出し涙したときには一生懸命背中をさすっていただいたり( その後ひと目もはばからず号泣していました )。
とまぁ、体ごと受け止めてもらったと言えばそうですが、もっと心の奥のほうで「 受け止めてもらった 」というジンワリとしたあったかいものが生まれてきたのです。むずかしいかもしれませんが、魂が了承したということ。
そういうジンワリとしたあったかいものが生まれ続け、今こうして言葉に出来るのですが、これは日毎にですね。今もなおです。徐々に、だんだんと。
そうして受け止めてもらったわたしは、驚くほどに周りの目が気にならなくなりました。
えーとですね、実際には気にはしてます。なんて言うんでしょうか、周りの目を気にして落ち込むことが少なくなったということでしょうか。
何かをさせていただくと、いろいろと言う人・思う人がいますから、聴いていて気にはしているのですが、そちらに焦点は合わさないようになった。言ってみたら、「 何か言っているな 」という具合い。
そうして少し気になるようなことが大きくなったら、それをもってわたしはわたしでお取次を願い、師と一緒に、神さまと一緒に、また「 考えさせていただく 」という毎日になりましたから、気にしているといえば気にしているのですが、気にしていることで頭がいっぱいになって何も手につかないと、そういうことは減ったなぁと思います。
でも間違いなく言い切れるのは生きやすくなったなぁということ。
受け止めてもらうという行為から、これほどまで自分を見つめようと思えるようになり、そうして受け止めてもらった経験、自分を見つめた経験から、他人を受け止めてみよう、とか、見つめてみよう、とか思えるようになったのですから驚きです。
そして気付けば、「 自分がどうありたいか 」という自分しか思えないことを、ようやく思えるようになりました。これはほかでもない自分にしか思えないことですからね。
苦しんでいる人は大抵これが思えないんじゃないでしょうか?むしろ「 こうじゃなきゃいけない 」とか「 こんなんじゃ笑われる 」とか「 お利口にしていないと受け止めてもらえない 」と、一番身近な親に対してまで思ってしまいがちですからね。
それほど心っていうのは、油断するとそっちの方向、生きづらい方向にだんだんといってしまうのだなぁと自らの体験をもってして、そう思います。
おわりに
生きづらいと感じている人が、自分の内側にある「 こうありたい 」という想いを自分で受け止めてあげられるように、その手助けが出来ればと願っています。
他人の目が気になるあなた、受け止めてもらったという経験であなたを受け止めさせていただきます。きっと周りが気にならなくなり、自分を見つめてみようと思えるようになると思いますよ。
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いかがでしょうか。