宗教家のすがいんです。
勇気づけようと、良かれと思って言葉をかけたつもりが、相手にとってはのちのち大きな傷になってしまうこと、少なくないなぁと感じます。今日は悩みの比較について書いてみたいと思います。
悩みのすり替え
悩みの比較です。本人がそのことで悩んでいる、苦しんでいるものを、ほかの例を引用して、もうそれこそ「 なっ、だからガンバレ 」と片付けてしまうこと、ありませんか。たとえば……
- 世の中にはご飯も食べられない人がいるのに、あなたは……どう?
- あなたよりも苦しんでいる人が一生懸命生きているのに、あなたは……どう?
- ( 直接的に )だから頑張りなさいね
などなど……。悩みのすり替えですね。
そもそも悩みというものは比べることなど出来ないと思っています。何と言われても悩んでいるんですから。
しいて言えば、これらの比較も本人が自覚する分には、自覚して奮起する分にはそれはそれで良いのかもしれませんが、これもタイミングがとても重要だと感じます。
それこそ、よほど慎重に、関係性を築いてからでないと安易に言ってはいけないNGワードのように思います。
それを第三者があたかも、「 俺は全部知っているから。俺の言うこと聞いていれば間違いないから 」と、それがあたかも正しいかのように言われてしまって( こちらの心は置き去りに…… )、どれほど本人を傷つけているかもしれないということを、何でもかんでも比べてしまう人は特に、知っておいた方がいいと思います。
二代目として
わたしのここ最近の悩みで言えば、数年前のことです。
この武蔵小杉教会の二代目として、父の跡を継ぐ、ということが決まってから、人知れず悩みを抱えていました。
その悩みを話す場が幾度があったのですが、そんなとき決まって言われたことがこういう言葉だったんですね。それほど関係性がない人から……^^;( そもそも相談したのはわたしなのですが…… )
- 須賀院くんは恵まれているよね
- あれだけ立派なお父さん( 初代で基盤を築き上げたことを指して )の元で御用できるんだから感謝しないと
- ホントに羨ましいなぁ
- これだけの規模( 教会の大きさ、信者数…… )なら安泰だね
これらの言葉がけが、当時のわたしの悩み( 後継としての不安・二代目としてやっていけるのかの不安・そもそも神様が分かっているのかの不安・総じて、先の不安 )と比較されているようで、またわたしが直面している悩みそのものがすり替えられていると感じてしまい、結果、どうにもやりきれないイライラとした気持ちを抱えることになりました。
言葉にしたら「先の悩み?そんなの誰にでもあるでしょう。そんなことでくよくよすんなよ。今、おかげいただいている教会の後継ぎなんだから、そのままに、な、ガンバレ」と、もうわたしのデリケートな悩みなど一切関係なく、すべてが一緒くたにされ、根性論で背中を押されたような気分でした。
当然、やる気など出ませんでした。喜びがないのですから。
悶々と、この気持ちを分かってくれる人などいない、そう思い続ける日々が続く中、師と巡りあい、この当面の悩み( わたしが何に悩んでいるのか )を丁寧に聴いてくださいました。
「須賀院くんは、そのことで悩んでいるんだね」と。
それから、答えを出すわけでもなかったけれども、終始、寄り添ってもらって、『一緒に』なって考えてくれたなぁ、願ってくれたなぁ、祈ってくれたなぁということが、今のわたしの日々生きる原動力となっています。
この姿勢を、今まさに悩み苦しみ参られくる人に、してもらったようにさせていただいております。
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口が裂けても「 もっと辛い人が頑張ってるんだから、ね。大丈夫^^ガンバレ! 」など言いません。
おわりに
文章にすればとても幼稚に聴こえる内容かもしれませんが、当時は真剣に一生懸命もがいていました。
それだけわたしの中で、代を継ぐということがすんなりと消化出来ない悩みだったのです。
けれども今は本当に楽です、はい。考えてもみたら当時は「 自分で 」何かをしようと力んでいたのだなぁと思います。
師には「必要な学び」とも教えてもらっています。悩む必要があったということですね。そう理解しています。
神様とあとたった一人でいいから、しっかりとあるがままの自分を受け入れてくれる人がいると、それだけで人は立ち上がることができるんだよ。
師の言葉
そういうことです。事実、立ち上がっています。いかがでしょうか。