宗教家のすがいんです。
アドラーブームを生んだ『 嫌われる勇気 』の続編であり完結編でもある『 幸せになる勇気 』を読みました^^文中に「 宗教 」という言葉が何度か出てきました。宗教家として感じたことを書いてみたいと思います。
金光教と類似するところ多々あり
『 嫌われる勇気 』同様、『 幸せになる勇気 』も青年の問いに対して哲人が答えるという構成です。
冒頭に青年は「 アドラーの哲学は、宗教となにが違うのですか 」と問います。僕もこれは思いました。『 嫌われる勇気 』を読んですぐに思いました。まぁ、宗教というよりは、僕のよく知っている金光教と似ている、と。
『 嫌われる勇気 』の中で、アドラー心理学の要素がいくつも紹介されていましたが、たとえば……
人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる 人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいる 問題は、世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか 人はいま、この瞬間から幸せになることができる
などなど。。金光教の真髄であるおかげは和賀心にありとすごく似ているなぁと思いました。
おかげは和賀心にありとは、「 おかげ 」はどこからか、誰かから与えられるものではなくて、私の心(わが心)が和らぎ喜(賀)ぶ心になったとき おかげになるということです。状況、環境などまったく関係なく、おかげになるんだ、ということ。
まさに「 この瞬間から 」です。
「 神 」の存在
そして青年の「 アドラーの哲学は、宗教となにが違うのですか 」の問いです。僕の疑問点とマッチし、冒頭から引き込まれました。
哲人は次のように答えました。ここで文中では「 アドラー心理学 」と「 宗教 」というよりは「 哲学 」と「 宗教 」の違いで表現されています。これはアドラー心理学が、心理学というよりは「ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学である」とのことからです。では、
最大の相違点は「 物語 」の有無でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。対して哲学は、物語を退ける。 真理の探求のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている。暗闇の中から内なる声が。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたし(哲人)は「 宗教 」と呼びます。哲学とは永遠に歩き続けること……
物語……たしかに、神さまの存在をおくことがそもそも物語なのかなぁとも思いましたが、そのまえに哲人はこのようにも言っています。『 ここは思いきって、「 神 」の存在を除外して考えると議論がわかりやすくなる 』と。
思いきって……というぐらいですから「 神 」の存在は認めた上で( 疑えない上で )、話を進めているのだろうなぁと。だったらそれは神さまと、信仰と何が違うのかなぁとも、単純にそう思いました。
以前にも哲学者の話を何度か聞き、その度に、正直「 苦しいなぁ 」と感じていましたので。
どこまでいっても説明し得ない部分が出てきます。そのとき、説明し得ない部分を「 超越者 」とか「 偉大なるもの 」とか表現されていました。
もうそれは「 神 」でいいのに、といっつも思っていました。けれども神様と言い出すとそれはもう宗教になってしまうのだろうから、とにかく説明が苦しいなぁと思いました。
次に、竿の話……たしかに教祖さまの教えを寄す処にして生きていくと覚悟した瞬間、答え( 真理 )を手に入れた……そう思えば竿から飛び降りた、という表現もすごく良く分かりました。経験的にも。
でも、僕のイメージとしては、竿から飛び降りても、飛び降りたそこからまた新たな暗闇があり、また歩き続けていくという具合です。今もなお。
教祖さまは、
一生が修行である これですんだと思いません 此方といえども、間違えば、いつお暇が出るかわからぬ 教祖さまのみ教え
と教えてくださっています。
間違えばというのは神様を手放してしまうことです。だからいつも油断できないのです。手放してしまう恐れのある自分( 人間 )だから。
よく氏子からも「 金光教の信心はムズカしい 」と言われます。それは、○○をすれば良いという明確な答えがないからです。信心すればおかげになると言われますが、その信心の仕方が、人それぞれなのですから。
常に自問自答、そして神問神答だと思います。この部分もアドラー心理学と似ているなぁと。答えを求め続け、考え続けていく……という部分です。
ブログを書くにあたって調べていたら次のような記事が……
アドラーが生きた時代の心理学は、科学的に証明されたものよりも、その時代の哲学や宗教などの影響を受けていました。したがって、アドラー心理学はアドラーの思想であり、仮説に過ぎません。つまり、その仮説を検証したものではないということは頭に入れておくといいと思います。現代に生きる私たちは、過去の賢者の英知を学びながらも、新たな知識も取り入れ、自分の力で考えたり、行動したりすることが大切になってきます。
自分の力という表現も何なのかなぁ……とも思いますが。神様にお願いして「 させていただく 」が良いのかなぁと。
『 嫌われる勇気 』『 幸せになる勇気 』を読み、感じたことを書いてみました。自分の立ち位置をあらためて考えるきっかけを与えてくださった本に出会えたと嬉しく感じています。
おわりに
『 嫌われる勇気 』を読んだあと、神と人間や師と弟子について、著者である岸見先生にお伺いしたことがありました。
「 神様と人間は、まさか横の関係ではないと思いますが、いかがでしょうか。( 僕は )折り目をつけてあげることが大切と教えていただきました。宗教ですから、神が存在し、神を伝えていくことを前提とした折り目です。信じさせてあげたい、とも。目に見えない神様ですから、折り目をつけてあげることで、整っていくものだと、そのように教えていただきました。この折り目も、アドラー心理学では、縦の関係に属するように感じました。」
すると岸見先生は、『 横の関係には尊敬も敬意も、折り目も含まれていると僕は考えています。それは年長者や師匠に対してだけでなく、子どもにも同じでありたいと考えています。使い分ける必要はありません。僕も教師で長年若い人に教えていますが、僕は学生を尊敬しています。考える機会をくださっていること、ありがたいです。』
丁寧に答えてくださいました。神様と人間との位置関係は宗教の領域ですが、その前立ちである宗教家と氏子( 人間 )の関係について教えていただいたように思います。
ここからもこれまで同様、求めていきたいと思います。また何か感じることがあったら書いてみたいと思います。
いかがでしょうか。