宗教家のすがいんです。
受け入れるということについて今一度書いてみたいと思います。
あなたが決めたことを
あなたが決めたことを受け入れました
師の言葉
師の言葉です。この言葉は、誰に言われるかによって多少ニュアンスも変わってくるのかもしれませんが、師より言われたとき、すごく嬉しかったことを覚えています。
あなたが決めたことを。師の中でわたしの選択に対して、「 それは違うんじゃないか 」という部分ももちろんあったとは思いますが、受け入れるということがどういうことなのかを、言葉だけでなく、身体全体で、雰囲気としてわたしに現してくださったように感じています。
受け入れられるということは、この当の本人が感じることが出来たというのが非常に大きな要素になります。
受け入れたいこちらが「 受け入れます、受け止めるから 」といくら気張ったところで、相手が「 いやいや、結構です 」と思われたら、それはまったくもって受け入れたことにはならないですから、アタリマエですが。そういう例が多いのも確かです。
受け入れることを言葉だけでなく、まずは私からという具合に、教えていただいたように思います。
経験値のない自分発信は不可能なのでは
昨今の対人関係に関する書物を読みますと、まずは自分発信的なことが書かれていますが、わたしはこれには相当の無理があると感じています。
それはしてもらったことしか出来ないと思っているからです。
例えばこの「 受け止める、受け入れる 」にしたって、受け止められた経験、受け入れられた経験がない限り、誰かから相手を受け止める大切さの話を聴いて「 そうだ、これなら私にも出来る 」と思って実際に実践したとしても、そもそも受け止めてもらった経験がないのだから「 受け止め方 」が分からないのではないかと思うのが理由です。
虐待の連鎖などまさにそれで、全部が全部とはいいませんが、そもそも愛情の注ぎ方を知らないのが原因だと思います。愛してもらった( と感じる )経験の欠如。受け止めてもらった( と感じる )経験がありませんから。これは明らかに、一生懸命やりました、とは異質のものです。一生懸命では補えないところかと感じます。
それはその人が「 受け入れられた 」とそう感じた経験がないため、受け止め方が分からないのです。どうやって受け止めたらいいんだろう、この場合は……?どこまで受け止めればいいんだろう、いつまで……?
ここで取次者であるわたしは、そうやって悩み苦しまれている人のために今この世に存在しているのだなぁと思えるようになりました。お取次を通して、受け止められた経験がない人を受け止めさせていただく。
愛情を感じられないから苦しくなるという事実|宗教家の書くブログ |
それは無期限であり、無条件です。無期限となると「 依存 」を連想するかもしれませんが( わたしは連想しました )、そもそも親子の関係に期限などありませんから。
受け入れるということはそういうことです。
受け止めるということは、まさに親が子を一生かけて受け止める、そのものだと思いますから。期限など切れるものでもないのだなぁと思います。
それでも、ずーっと子どものままではいられませんから、お育ていただいてその人が次は親になる。
親( 取次者=宗教家:わたしのことです )から受け止められた( 愛された )経験をもって、次は対象となる子を受け止めていく( 愛していく )役になっていくのです。
これが、生まれた国や地域や環境などによって、「 もうこの苦しみから抜けだせない 」と今まさに苦しまれている方が世の中にはたくさんいらっしゃいますから、その方々めがけて。
おわりに
現に苦しまれている方が、神さまからいただいた命をありがたく思えるように、そうなるように私は私としてこの生命、この身を使っていただきたいなぁと、そう思えるようになりました。
受け止めてもらった経験をもってして、そう思えます。
以前ブログにも書きましたが、学生時代のわたしの口癖は「 ダルい 」でしたから^^;すごい変わりようです。
起こりくることみな良し|宗教家の書くブログ |
人間変わるものです。愛をもって、お育ていただいた、ということでしょう。ありがとうございます。
受け入れるということについて今感じることを書いてみました。いかがでしょうか。