宗教家のすがいんです。
ある参拝者の話。何かに囚われるということからの『 真のお詫び 』について。
苦しい、助けて~
今朝ほど雨の中、一人の老婦人がお参りされました。
数日前からお届けされていた悩み、とにかく呼吸が苦しい……と。その苦しさも波があって、本人曰く内臓からくるというよりも、精神的なものが原因では?と言われていました。
ひとしきりお話を聞き、わたしはわたしで祈らせていただきました。
途中また波がきて、「 あ~苦しい、苦しい~、助けて~。先生、私はもうこれで終わりなんでしょうか 」「 なんて私はめぐりの深い人間なのでしょうか、お詫びしますから助けてくださいぃ~、神さまぁ~、お助けください、金光さまぁ~ 」と、もうそれはひと目も気にせずに叫んでいました。
お結界でわたしはただただ聴かせていただきながら、それこそ正直な話、いつ救急車を呼ぼうかとも案じていました。しばらくトイレに行かれ全く音がしなくなったときなど……。
同時に祈り続けておりました。「 どんなお詫びかは分かりませんが、この氏子に成り代わってお詫びさせていただきます 」とご神前に額づいてお願いさせていただいておりました。
お願いさせていただいている中、ふと、先日師に教えていただいたことが頭をよぎりました。それは……真のお詫びのこと。
お詫びといっても、心からお詫びしたら、それでいい。真のお詫びは、二度と繰り返さないことしかない。今、今日の段階では、真のお詫びなんてできない。(できるのは)御礼だけ。
師の教え
そして、こうも教えてくださいました。
過去もない。未来もない。あるのは、今だけ。今がすべて。今を喜ぶこと。
師の教え
そしておかげに変えろとまで、強く教えてくださいました。
過去も未来も想っているのは今ということ
この過去もない、未来もないというのは、過去を考えているのも今だし、未来を想っているのも今という事実を言われているのだと思います。
だからいよいよどう思うか、どう感じるかは、過去について言えば何が事実というよりも今どう感じているかがすべてなのではないでしょうか。そのことを思い出しました。
変わる変わるわたしの内側|ご信心させていただけるというおかげ|宗教家の書くブログ |
話は戻って、老婦人のこと。
ひとまず波が落ち着いてきたので、お結界に呼び、真のお詫びについて、ゆっくりと話させていただきました。
その前に、「『 ご無礼をお詫びしてください、ご無礼をお詫びしてください 』と何度も何度も言われてましたけど、過去のことで気になることがあるのですか?」と問いました。
その老婦人はこの教会にずーっとお参りされています。もう何十年も。過去にあったことなどいくつもお届けされました。これでもかというぐらいに。いろいろあったことは事実です。
けれども今でも「 助けて~ 」っていうほどのお詫びすることがあるのですか?と聞いたのです。そしたらビックリするほどに「 ありません、わたしとしてはちゃんとやってきました 」と言われたのです。
少し拍子抜けしましたが、老婦人に合わせるように、「 だったら、お礼しかないでしょう 」ということで先ほどの真のお詫び、今の今のお話をゆっくりと丁寧にさせていただきました。( もちろんお詫びすることは誰もにあります。どこにどのような御無礼があるのか分からないのが人間の実際ですから )
しばらくして落ち着かれ、帰るころには、「 まだ何かやることがありますね。ここからの命のおかげをいただかせてください 」とニッコリと言われていました。
ついさっきまで「 もう私も終わりでしょうか 」と言われていた方が、です。このおかげに変えてくださったことに対して、わたしはわたしであらためて神様に御礼申し上げさせていただきました。
おわりに
真のお詫びですが、今回の老婦人で言えば、二度と繰り返さないというのが何にあたるのかと考えましたら、お詫び(だけ)し続ける姿勢だと思いました。その姿勢を繰り返さないこと。今を喜ぶ姿勢に変えていただくということと感じ入りました。
お詫びばかりしている老婦人から感じるのは絶望感ばかりでしたから。
師の教え通り、お詫びは心の中ですればよい。( くり返しますがお詫びがない人間などいないのです )
聞き方によっては少しキツく突き放したように聞こえてしまうかもしれませんが、本当のこと。本当のことだから言われた老婦人も「 はい、分かりました 」とすぐに返事が出来、実際に心元気になられたのだろうと思います。
真のお詫びについて教えていただいたことと実際の参拝者とのことについて書かせていただきました。月例祭の前にこのような経験を神様からさせていただけましたこと、これも御礼です。
真のお詫び……二度と繰り返さないということです。
いかがでしょうか。