宗教家のすがいんです。
生きたい!と思えない人へ。もしくは死にたい……と思っている人へ。
なぜ死んではいけないの?
「 なぜ死んではいけないのでしょうか 」
金光教の教師となり直接によく聞くようになりました。
本人としてみたら、本当に疑問に思っています。それを相手であるわたしに問いながら、そうして苦しんでいることは間違いありません。
「 死んではいけない 」と心の奥深くで思っているからそのような問いが出てくるとも思います。それでも生きるのが辛いのですね。死んだほうがどれだけ楽かと。
わたしはそういうときはただただ寄り添うことに努めさせていただいております。頼りない気もするかもしれませんが、見捨てずに、どんな暴言を受けようとも。
「 死にたい 」とそう感じるという部分にただただ寄り添う。「 死にたいと、そう感じるんだね 」と声掛けをしながら。
見聞きする言動に振り回されずに
師はよく分け御霊様( 魂のこと )に認めてもらう、分け御霊様にご納得していただくという表現をされます。
相手の口から出てくる「 死にたい 」「 消えたい 」も、聴くには聴くのですが、どこまでも分け御霊様を意識して、ときに焦点をズラして、ぼやかして、あまり言葉に振り回されないように意識しながら聴いてます。
細くなが~く|宗教家の書くブログ |
次です。最近強く思うのですが、こちらの方がタチが悪いといいますか、言ってこない分、難しいのではと。
それは「 生きたい!」と思えない人です。日々に感動が無いというか、つまり日々の命に対して感動が無いため、「 こんなもんでしょ 」と言わんばかりに「 アタリマエ 」になりつつあるのでは、と。
だから「 生きたい!」とあえて思わない。思えない。思う必要性が分からない。ただただ生きているという感じでしょうか。寿命が来るまで、願いも何もなく……
これは無難ともとれますが、わたしの思う生き甲斐からは大きくハズれているのかなぁとも思います。ですが、この辺りは強制も出来ませんし、強制した時点でややこしくもなるでしょうし、それこそそれぞれの自由ですので。
けれどもそのような生き方を進めていくと、どこかで生きる甲斐を見失うような怖さもいたします。いかがでしょうか。
ここで、昔からよく「 人のお役に立つ 」と誰もが親から、親族から、学校の先生から言われた経験があるかと思いますが、それがよく分からない時は、それこそ「 何で?」「 俺だけ?」とか思ってしまうこともありましたが、人のお役に立ってみると、はじめて「 生きている 」と実感するところがあり、それが繰り返されていくと、もっと「 生きたい!」と思えるのかなぁと、わたしはそう思えるようになりました。
今はわたしのお役として、お結界という場所に座り、苦しまれている方のお話を聴かせていただくということを一年365日続けさせていただいております。もう生き甲斐ですね、はい。
そしてだんだんと聴かせていただいておりますと「 死にたい 」というのも「 生きたい 」のに、生きるのがどうしても辛いから「 死にたい 」と言ってしまうだけであって( 本人の自覚無自覚はさておいて )、それが転じれば、ありがたい心「 生きたい!」になるのかなぁとも思っています。
そう考えると、やっぱり死にたいともそれから特段生きたいとも思わない人の方が、いよいよ大丈夫かなぁと老婆心ながら思ったりもしています。
おわりに
あらためて「 なぜ死んではいけないの 」と聴くということは、「 生きたい 」の裏返しだと思いました。
だから「 生きたい 」と言えるまで、言える勇気が持てるまで、言える安心感が生まれるまで、言ってもいいのだと、そう思えるまで寄り添わせていただきたいなぁと思います。命ある限り。。
そうして寄り添われたその人は間違いなく誰かのお役に立ちたいと思うようになりますから、されてきたこととまた同じように「 死にたい 」「 消えたい 」と言われている人たちのそばで寄り添わせていただくことになろうかと、それが神様への唯一最大の御礼であるということは教祖さまが教えてくださっていることであります。
神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな
教祖さまのみ教え
生きたいと思える人、死にたいと思ってしまう人、どちらも感じない人について思うところを書いてみました。いかがでしょうか。