2016年4月4日月曜日

神さまだって働きようがない場合がある話|金光教独自の教え


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


「 死にたい…… 」「 消えたい…… 」

ブログを( ほぼ )毎日書いていると、今日は何書こうかなぁと毎日考えるわけで。このブログ、今では日課にまでなっています。

日課といえども毎日悩みますね。どうやったら伝わるかなぁ、おもしろく読んでもらえるかなぁ、と思いながら色々な人の記事を読んでいたら勇気づけられました。よく読ませてもらっているブログです。その記事はこちら↓

自分のブログ好きですか? 自分が「ときめく記事」を書いていけば良いと思う|ヨッセンス (外部リンク) 自分のブログ好きですか? 自分が「ときめく記事」を書いていけば良いと思う

ということで、思ったことを、またそのまま書いてみたいと思います。

あぁ~ありがたい

昨日は勧学祭でした。都合つけられるお子さんたちが親御さんと共に、ここまでの1年のお礼とお詫びと、ことし1年のお願いをするお祭りです。

年に一度、顔を見る子もいました。お届けを聴かせていただいても、将来の夢や、部活動のことなど。目をキラキラさせて。聴かせていただいて「 ありがたいなぁ 」と純粋に思います。

その一方で、「 死にたい 」「 消えたい 」と言われている子たちもいるのですね。数年前から『 電話相談 』の窓口を設け、時間の許す限り聴かせてもらって、「 死にたい 」「 消えたい 」と言われる子と触れ合わせていただく機会が増えました。

ここで、願いも悩みも比べられるものではないことは重々知ってはおりますが、それでも「 死にたい 」「 消えたい 」と言われる子に比べ、将来の夢やこれからのお願いが出来るというのは、ただただ「 ありがたいなぁ 」と思えました。

なんたって「 死にたい 」「 消えたい 」と言われている子は今日明日の話をしているわけですから。

でも……

で、ここでもう一つ考えました。それは、『それでも「 死にたい 」「 消えたい 」と言われる子とこうやって電話でつながらせてもらえたこともありがたいのではないか』と思うようになったのです。

というのも、今お花見シーズン。教会前の桜も咲きに咲き、桜並木を歩く人々がどのような信仰をされているか分かりませんが、「 神様?信じません 」と言われる方も、中にはいらっしゃるだろうなぁと。

その人たちに比べたら……「 死にたい 」「 消えたい 」と言われる子たちは電話からでも繋がることが出来た。先は分からないけれども、神さまに繋がるすべを得たわけですね。これは大きなことだと思ったわけです。

金光教の神さまは特殊というか大きな神さまでして、人間あっての神と言われました。

神あっての人間なら、他の宗教でもいろいろと言われていますけど、人間あっての神は金光教だけかと思います。

考えても見たらそうなのです。桜並木を歩いている「 神さま?信じません 」と言われている人たちにとっては、それこそ「 神さまいますよ~、信じないと助かりませんよ~ 」と言われたところで、信じる信じないは本人次第ですから、働きようがない。

「 神さま?信じません 」と頑なに思われた方にはどうやったって関わっていけないのです。神さまでも。そのように教祖さまは説かれました。ここがスゴイ。分かりやすくて、ありがたいですね。

たとえ神さまがいたとしてもです( いますよ。いなければ人間は存在すら出来ないですから……感じるかどうかの話 )。

神様って本当にいるの?|感じることと信じることについて|宗教家の書くブログ 神様って本当にいるの?|感じることと信じることについて

もちろん信心しようがしまいが、人間が生きる上でのおかげはいただいていますのであしからず。水とか空気とか、光エネルギーとか……。

天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から出来た神でなし。天地は流行る事なし流行る事なければ終りもなし。天地日月の心になる事肝要なり。信心はせぬでもおかげはやってある。

教祖さまのみ教え

神さまでも働きようがない。

教祖さまは神さまと人間を親と子の親子関係として捉えました。だから、親子関係でも同じなのですね。親がいます。そしてわが親が現に目の前に生きていたとしても、子が親を親と思えていなかったら、親だって親として働きようがないのです。これは現実、そのような親子が世にたくさんいると感じますね。

だから、「 死にたい 」「 消えたい 」と言われている人も、電話一本からではあっても、本人にその気がなくても神さま( 親 )と繋がり始めたということが、このことがありがたいということです。そこがスタートとなって神さま( 親 )がお働きくださる可能性が出てきたわけですから。

おわりに

やっぱり勧学祭の子どもたちはありがたいですね。

親が信心していた、というのもとてつもなく大きな要因と思います。

まぁ信心は個人個人のことですから、それぞれのここからではあるのですが、けれどもスタートが違いますからね。家に特定の宗教がなく「 無信仰です!」と言う人から比べたら、ロケットダッシュしているようなものです。

このようなことを考えていたら『 電話相談 』で繋がらせていただいている「 死にたい 」「 消えたい 」と言う子にも、「 ありがたいなぁ 」という気持ちで接することが出来るのですから、それはわたしが助かっているということにもなりますね。

もちろん悩みを聴かせていただき神さまに「 どうぞここから何とかしてください 」とお願いするのですが、それもすべて神さまの懐の中でのことと思えますから。

神さまと人間について感じるところを書いてみました。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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