宗教家のすがいんです。
生きているということは何なのでしょうか。生きづらいと感じている人より多く投げかけられる疑問です。
産んでくれと頼んだわけじゃない……勝手に産んでおいて……などなど。について、わたしが思うところを書いてみたいと思います。
自分の願いとはうらはらのこと
生きやすいと感じていたり、「 命、ありがたい 」と思われている人は疑問にすら思わないかもしれませんが、「 生きにくい 」「 死にたい 」「 消えたい 」……と思っている人はしばしばこの命が誕生した理由について疑問に思うようです。
わたしはと言えば、「 死にたい 」「 消えたい 」とまでは思ったことはないように思います。けれども、「 あなたのせいで 」と今の不遇な( と感じていた )自分の現状について、他人や環境を恨んでいたことはあったなぁと思い出します。
それはつまり、自分の願いや、今までしてきたことなど、それらとは全く別のことが原因で自分の人生が左右されていると感じていたからだろうと思います。
出てくる言葉は「もうどうしようもない」という言葉でした。助けていただいた今、この部分がどうなのかなぁと感じるようになりました。はたして自分ではどうしようもないものなのか、ということをです。
自分だけではどうしようもないことは確か
自分ではどうしようもないと感じているならば、もはや打つ手なしなのですから、それこそ寿命を待つか、もしくは自ら命を絶つか、という選択肢になるというのも分かるのです。
だから口から「 死にたい 」「 消えたい 」という言葉も自然と出てくる。
わたしの経験では、この「 どうしようもない 」状態の中、救世主となる取次者と出会うことで人生が一変しました。本当に大げさでなく。
今「 死にたい 」「 消えたい 」と思っているということは魂が昂ぶっている証拠です。荒ぶっているとも言えると思います。
ここは自分の想いとは裏腹に感じるだろうと思います。何か腹立つ、何か悲しい、何でか死にたい、なのですから。魂が傷ついているから悲鳴をあげているとも。
この魂の状態を変えるためには、変えていただくためには、懇切丁寧に、取次者に時間をかけて寄り添っていただくことが要ります。
そうしていただくことで、「 沈下 」していくのだなぁと感じます。
わたし自身今でも腹が立たない、ということはありません。以前より少なくはなりましたが……
でも当時の環境や他人のせいにいしていた頃の気持ち( 魂 )の状態は、今とは比べものにならないほど、ものすごく荒ぶっていたのだなぁと思うのです。
人にあえば着火し、また何か気に障ることがある度に着火し、そして何がなくても着火していましたから。何かイライラすると……
本当に毎日がしんどかったです。一日中怒っている状態ですから。気の休まるヒマがありません。
怒りながら虚しく、怒りながら寂しく、怒っては落ち込み、と、どうしようもないのです。
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電話相談、メール相談の窓口を設けてから、「 死にたい 」「 消えたい 」と言われる氏子さんたちと多くつながることが出来ました。
それぞれに抱えられている悩みは違いますから一様には言えないのですが、「 魂が傷ついている、魂が荒ぶっている 」ということはどなたにも言えることなのだろうなぁと思わせていただいております。
おわりに
目の前に現れた氏子さんたちに対してわたしが出来ることは、わたしが以前してもらってきたことと同じように、魂の沈下、魂が鎮まるように寄り添わせていただくことだけだなぁと日々感じています。
いかがでしょうか。