宗教家のすがいんです。
今日は一つの事例について書いてみたいと思います。
ある氏子からの言葉
受け止めるには、「受け止められた経験」が必要と、事あるごとに何度も言ってきました。
それは私が経験してきたことで、教えられたことでもあって、「人はしてもらったことしか出来ない」という教えからも、絶対そうだ!と強く思っていたから、何度も言ってきました。
信念や覚悟も無い袖は振れない|宗教家の書くブログ |
それが、私の身の上で実証されたことがあり、「 あぁやっぱりそうだったのだ 」と強く思わされた次第です。
というのも、ある氏子から次のように言っていただいたことからそう強く思えるようになりました。
お話ししようという気持ちになっているのは、、先生(←私のことです)にお取次ぎをいただくようになってから、諭すでもなく、話を取り上げるでもなく、まとめるでもなく、叱るでもなく、すべて受け止めてくださる先生の姿勢に、全幅の信頼を寄せるようになったから
ある氏子からの言葉
言われて正直驚きもしました。でも「 やっぱり 」とも思えたんです。不思議と。
経験させてもらってきたから
言うまでもなく、これは私が経験してきたから。
「 諭すでもなく、話を取り上げるでもなく、まとめるでもなく、叱るでもなく、すべて受け止めてくださる 」という部分は、そっくりそのまま経験させていただいてきたことでした。私自身が受け止めてもらってきた、その経験。
だから、その氏子にもさせていただくことが出来、そしてその氏子の魂が感じてくれ、氏子の口を通して言葉にしてくれたのだろうと思います。
まさに、「人はしてもらったことしか出来ない」そのもので、それが連鎖した瞬間でした。
おわりに
ずっとずっと聴かせて頂いております。それはずっとずっと聴いてもらってきたこと( 聴き方や受け止め方のこと )を、出来る限りで丁寧にトレースさせていただいているような感じです。
これまで色々なことも言われてきました。「 聴くばっかりじゃなく何か言ってください 」とか「 そんなんで人が助かるのでしょうか 」とか。
そんな事言われても、私が「助かった」と、実感できたことをさせていただいているだけで、それ以外は到底出来ないとも思っていますし、必然的にそうさせていただいてまいりました。
「人はしてもらったことしか出来ない」を実践して、その助かりが拡がっていく事象に出会わせていただきました。とってもありがたい気持ちです。
いかがでしょうか。