宗教家のすがいんです。
今日は「 なぜ様々な宗派に分かれるのか? 」について書いてみたいと思います。
宗派?
およそタイトルからして仏教?もしくはイスラム教?と思われるかもしれませんが、わたしが宗教家として御用させていただいている金光教にもあるように思っているんです。
一般的にはないと思われているかと想像しましすが。歴史は古いですが、そんなに大きな教団でもありませんし。見事に「 金光教 宗派 」で検索しても出てきませんでしたので、わたしの想うところを書いてみたいと思います。
まず、金光教ではお広前( 教会内にある礼拝する場 )で主に結界取次の御用をされる教師のことを『 守り 』と言います。宗教家のことです。神の守りと同時に、氏子の守り役、子守りという意味合いでも言われます。
教祖さまのみ教えをいくつか……
- みな、守り(神職)が悪うなっておる。
- そばを去るな。守りが大事。
- 神は一体。守り守りの力。
- 守りがよければ、その子は賢い。守りが悪ければ、子はばかになる。
- 神は一体じゃによって、此方の神じゃからというても別に違うてはおらぬ。それでも、あそこの金光様ではおかげを受けたけれども、ここの金光様ではおかげが受けられぬということのあるのは、ひっきょう、神の守もりをする者の神徳の厚い薄いによって、神のひれいが違うのじゃ。
教祖さまのみ教え
金光教教祖さまのみ教え|神様に心向けて生きることが人間らしい生き方|宗教家の書くブログ |
などなど、教祖さまは守りについて様々にご理解くだされています。
どこに?どのような心で?
さて、この守りですが、わたしも含め人ですね。人がすることです。人がすることですから限度があると思うのです。
そして大切なことは、どのように修行するかということ。一般的に「 決まってるんでしょ 」と思われがちですが、まったくもって決まっていません。はい。わたしもなってみてビックリしました。もちろん結界取次という働きが元ではあるのですが、そこにかける想いだとか、または祭典のような各種活動しかり、パワーバランスといいますか、わたしのこのブログだって勝手にやってますから……
ですから、修行の種類も違ければ、細かな内容も違ってくるかと思います。実際の話。そう考えると、そのように厳密に考えると金光教にも宗派の別があるのかなぁなんて思ったりします。
具体的にも言えます。
- 取次タイプ
- 祈念タイプ
- 教話タイプ
- 各種活動タイプ
- 御霊信仰タイプ
と……。これらは師弟関係が確立していた時代には何の疑問を持たずに師のなさることを弟子が愚直に進めていったわけですが……
金光教も代を重ねるたびに残念ながら師弟関係は希薄になってまいりました。親同士が師弟関係であってもその子と子が師弟になるかは難しいのです、当然ですが。
教会の関係は形として残っております。教内で未だ手続きと呼ばれ親教会の手続きをもって子教会[ 出社 ]が生まれるように。
そしてそして、一番問題だと思っているのが、師弟関係からハグれた教師たちは書物である金光教教典( キリスト教でいうところの聖書、バイブルです )から独自に修行をはじめていったわけです。わたしも教師となって師と見えるしばらくはそんな状態でした。
だから、師をいただきあらためて、わが金光教内にも宗派といいますか、守りが成長するための場が必要なのかなぁと思っています。宗派とまでは言わないのかもしれませんが、進むべき方向性はあきらかに違うように思います。どこにどのように、ということですね。
教祖に帰ると一口に言っても、それぞれが取る行動は厳密には違いますし、金光教の代名詞である結界取次にしても、お結界に教師が座るのですが、どのような心で座るのかが重要と、ただ座ればおかげになるものでもないと教えられております。
おわりに
宗派とは少しズレるかもしれませんが、進むべき方向、努力する方向があるように思います。同じ金光教といえどもです。
努力って、「どのくらいやったか」で語られがちですよね。本当は、どこで、どっちに、どのくらい、という話だと思うんですよ。まずどの場所で努力するのか。野球なのか、サッカーなのか、陸上なのか。それからどういう方向にどうやって努力するか。( 中略 )最後にくるのが、どのくらいやるのかだと思うんですね。場所と方向を間違えていたらいくら練習しても結果が出ない。「どこで、どの方向で」をとことん考えるっていう努力を怠っているからです。肉体労働的な努力はしているかもしれないけど、頭で考えるという努力をしていない、と言うことができるかもしれません。
為末さんの言葉を借りれば、わたしの場合どこでは「 金光教 」です。どっちには「 *師の進む方向 」です。どのくらい、これはこれからのこと。わたしに課せられたところなのかなぁと。努力、ただ座り続けるにしても、ですね。
*師の進む方向が教祖様の求められていたところと合致していると感じてのことであることは言うまでもありません。
いかがでしょうか。