宗教家のすがいんです。
今日は「 人に寄り添える素質 」について書いてみたいと思います。
ポケモンGOから
ポケモンGO( Pokémon GO )、ネット上ですごく盛り上がっています。自閉症の子が殻を破るきっかけとなったとか、そんな事例もあるとか。
と、同時に危険なニュースも。どこまで本当か分かりませんが流れてきます。
ビックリしたのは、道路に飛び出した子どもを擁護する親がいるとか、そんなニュースも……。内容としては、こんなに流行っているのだからスマホ片手の子どもがいたら車の運転手は危険予測して当然、そんな内容だったと思います。本当かどうか分かりませんが。
でも、「 さもありなん 」なのでしょうね。
わたしも少し遊んでみて、歩きながらポケモンを探してしまうなぁと、それが道路であろうと一瞬ですからね、フッと飛び出してしまうというのは容易に想像出来ます。
それに対しての親の発言はどうかと思いますが、ここで宗教家として……
理不尽なことを言っている人への寄り添い方
ある意味クレーマーと呼ばれる類の人たちの言動ですが、わたしはその人だけに原因があるとは思ってないのです。
すぐ想像できるのが、生まれてこれまで生きてきた生活環境ですね。あとは関わってきた人たちから受けた影響。ここまでなら、その人が原因、とも言えなくもないのですが、もう一つ。
「めぐり」というものがあろうかと思います。
巡り合わせですね。先祖代々からの。その家系はもちろんのこと、金光教の教祖様は人と人とが結婚したら( 養子もそう )、たとえば女性が男性の家に嫁いで男性性を名乗るようになったらその家系のめぐりも受けるということを教えてくださっています。
そうして合わさって出来た一つの集合体のようなもの「めぐり」が、人に対して影響を及ぼすことがあると思っています。
それがクレーマーとして現れたり、攻撃的な正確や、キレやすい性格。およそ人間関係が円滑に育めない人はこの「めぐり」が一因であるようにも思っています。
そう考えたらどうでしょうか。その人だけの責任とは言えずに、非難する想いも止まるのではないでしょうか。
ここまできたら、少しは寄り添えるような気がします。だから先程の例ですと、100%子どもが悪い( 交通ルールを破ったという時点で )にも関わらず、ドライバーの考慮不足と言い出す親の言動も、「めぐり」と捉えられたら次に出てくるのが「可哀想」なんです。その人だけのせいとは言えなくなるから。
そうして寄り添うことが出来るかと思います。だから信心がない人には寄り添うということもいささか難しいかなぁと、ニュースを見ながらそんなことを思いました。
おわりに
クレーマーと呼ばれる類の人たちは得てして、これまでに親身に寄り添い続けてくれる存在がなかったのではと想像します。理解者が居ないということですね。どこか寂しいんです。そう思います。
寄り添うにもまずは理解から|分からないから教えてという姿勢|宗教家の書くブログ |
だから何かと屁理屈をこねてこねて、そうして自分の正当性だけを主張し、それが少し曲がっていようとも、人間関係を構築しようなどとはハナから思っていないでしょうから、強引に押し通してしまうのか…もしくは寂しくてただただ叫んでいるのか、どちらかと思います。
最後に教祖様のみ教えを。
人を殺さないと言っても、心で人を殺すのが重大な罪である。人を鉄砲でうったり、刀で切ったりしなければ、私は人を殺してはいないと言うが、それは目に見える。目に見えない心で人を殺すことが多い。それが神の心にかなわないことになる。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれの仕置きにあうが、心で殺すのは神がおとがめになる。心で殺すとは、病人でも、これは大病でとても助からないなどと言うが、これが心で殺すことになる。人間の心では、助かるか助からないか、わかりはしないであろう。また、あの人は死ねばよいと言ったりもする。それがみな心で殺すのである。そうではなく、どうぞ向こうが改心しますようにと、神に祈念してあげよ。
教祖さまのみ教え
お上( 法律 )と同時に神目線での対応が人には( 誰もに )必要ということですね。法だけでは何とも……。
先ほどの親の言動で言えば交通ルールをいくら未然に防いだ( 事故にならなかった )としても、道理には沿っていないわけですから。
道理に沿っていないという意味では神様がおとがめになりますし、相手のことを「 どうしようもない 」と心で殺さずに、可哀想だなぁと祈ってあげることで、また違った結果になって、寄り添おうとも思えるようになるのではないでしょうか。
いかがでしょうか。