こんにちは。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。こちらのブログ、久しぶりの投稿です。

今日は、「 自分は大丈夫 」目線から問題を語ることについて思うことを書いてみます。
至らない自分
まずはご信心させていただいて、自分というものが分かりました。分かりきってはいません。分かり始めたと言った方が良いかと思います。
結論から言えば、【こんなに至らない自分なんだ】ということが分かりました。
これまでそれほど大きな問題もなく、何不自由なく生きてきて、だからこそですが、原因を周りに求めていたような気がします。分かりやすく言えば、「 こっちはこんなに頑張っているんだからどうにかしてよ 」という具合。
それが崩壊しました。自分を見ることで崩壊したのです。
あの犯人は私だったかもしれない
そもそも、どれだけ自信があったのかと思います。今となっては本性を知られたくないための怯えや恐れのようにも感じますが、そのことで周りともたくさん衝突してきました。
そしてご信心を知り、自分を見るようになり、自分を知り始め、周りに、それから自分にも感謝出来るようになったのが今です。
ここで、今日一番言いたいことは、根っこの自分はそんなに変わっていないということ。それは、いつ何時、何かをきっかけ( 引き金 )として、瞬時に相手を責め問題の原因を周りに求め、何事にも感謝出来ないような自分にならざるともえない、という事実のことです。
ある記事を見ました。
性暴力を「ささいなこと」にする レイプ・カルチャーとは何か【 外部リンク 】 | ![]() |
最初に説明があります。
レイプ・カルチャーとは、レイプしないよう教えられるのではなく、レイプ「されない」よう教えられる文化を指す。
これ、とっても大事なことと思います。まさに、『 ○○「されない」よう 』とは、自分があたかも安全圏にいて、その上で物事を見ていることに他ならないことだなぁと、あらためて。
僕はご信心で自分を知りました。とっても危うい自分です。だから、自分が「 されない 」ように、だけでは止まらず( もちろんされないようにも考え対処しますが )、加えて自分がしないようにも考え、日々を過ごしております。そして、それが大事で、それが人間らしいのだと、心の底から思えるようになったのです。
ある方がこんなことを言っていました。凶悪犯罪を見て、
「もしかしたらあの犯人は私だったかもしれない」と。
その時は、なぜそこまで思えるの……という気持ちでしたが、今は分かります。自分がどれだけ危うい存在か、もしかしたら何かをきっかけにして、してしまうかもしれない存在なんだと、そう思えるようになりました。
その境地に立てたのも、ご信心あればこそとありがたくも思わせていただいております。
おわりに
人は追い込まれたら何をしでかすか分からない存在
これが僕の今の『人』に対しての前提です。これもご信心後に理解できたことです。だから、ここに来る苦しむ氏子にも寄り添えます。「 自分は大丈夫 」などとは決して思えないから、相手にも寄り添えることが出来ます。
けれども参ってきた氏子は口々に言います。「 キレイな人生を歩んできた先生なんかに私のことは分からない 」と。
僕の気持ちは、「 そんなに変わらないよ 」です。もちろん押し付けはしません。氏子の方が、「 先生も同じなんだ 」と思ってもらえる日を願いながら、今日も話を聴かせていただていおります。
いかがでしょうか。
この記事を書いた人須賀院崇徳(すがいんたかのり)
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