おはようございます。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。

今日はわかるということについて書いてみたいと思います。
わかる……ということ
先日こんなことを教えていただきました。
わからないことがわかることによって安心する。癒される。
師の教え
広い意味で、宗教もそうかもしれませんね。わからないから、怯える対象にもなる。
神様って?これが想像できるようになっただけでも、とても安心します。それから神様に付随する人間という理解、人間である私だって。私がわからないから「 どうしたらいいの? 」「 何をしたらいいの? 」となる。
ここがわかってきたからでしょうか、とても安心しているのだなぁと今思えています。
どうしたらいいの?
じゃあ、安心な気持ちになるためにはどうしたら良いのか、ですが……。
それは「 教えてください 」と神様に願うことと、わかる人に聞く( 触れる )が良いかなと思います。
神様に願うことは、最初はわからないでしょうね。教えて欲しい神様のことを神様に願うわけですから。。
だから、金光教には神様の前立である取次者( とりつぎしゃ:金光教での神様と氏子を結ぶ宗教家のこと )がいて、取次者がいよいよわかってないと、お参りされた氏子もわからないまま、神様に願うことも出来なければ、結果安心することも、癒されることもないのだなぁ……ということがわかってきました^^
ここに、教祖様のみ教えだけ流布すれば人は助かる、ということは考えられなくなったわけです( どんなに良い宗教でも廃れてしまう )。
いつだって道は『 人( 今生きている人 )』が開く、ということも。
だからでしょうね。心が穏やかであります。取次者である僕が何をしたらいいのかがわかってきたから。出来る出来ないは置いておいて。
正解・不正解と追い求めているとちょっと違うのかなぁということもわかってきました。以前の僕はまさにそれで、これをやっておけばいい、そんな正解主義でしたから。
まぁ、わかることが正解!と言えるのかもしれませんが、それはちょっと言葉の意味合いが違うような感覚でもあります。あくまで「 わかる 」です。
わかるから、わかった上で、「 これからどうする?」「 神様にお願いしていこう 」、となるのだろうなぁと。
おわりに
教祖様は、ご信心( わが心を神様に向けること )ある生き方を、『人間らしい生き方』と言葉にされました。ズバリです。
あぁなるほど、と。すごく今よくわかるようになりました。だからすすめるのでしょうね、心から。
不思議な生き方をしている人たちへ。
あっち( ご信心なき人 )から見たらこっち( ご信心ある人 )が不思議、なのでしょうけれど。
すすめ方も変わってくるでしょうね、わかるようになってるから、あくまで相手へ寄り添いながら勧めていくということ。
世の中が便利になればなるほど、神様に願うということとは対極の生き方になることは自明の理で、歴史はその繰り返しですが、あらためて、『人間らしい生き方』を求めていきたく思います。
わからないことがわかることによって安心する……。ジワリジワリとわからせてもらっています。
いかがでしょうか。
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この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)
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