おはようございます。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。

今日は親子間での寄り添い方について思うところを書いてみたいと思います。
いよいよは分からない。
親と子、親がいない子は当然ながらいないわけで、誰もに親が存在しうるわけです。そしてその親との関係性如何でその子の人生が大きく変わると言っても過言ではないと思うようになりました。
ある記事を目にしました。摂食障害に苦しむ女性の記事です。
158センチ、28キロ。違う、私が欲しかったのはこんなカラダじゃなかった。【外部リンク】 |
この記事の中で、あぁ残念だなぁと思った箇所がありました。それが親の子に対する発言、理解でした。以下、引用です。
食事の時間が苦痛で仕方なかった。体の「承認」を自ら削り落とす行為に、罪悪感で泣いた。
「あなたのことがわからない」母親に泣かれた。 「お前はもう治ったんだ、いいかげんにしろ」父親に怒鳴られた。 弟は口をきいてくれなくなった。
でも、私が今何を思っているかなんて、言えるわけがない。治療の間、私はひとりぼっちで、果てしなく孤独だった。
『158センチ、28キロ。違う、私が欲しかったのはこんなカラダじゃなかった。』より
母親の「 わからない 」、これを聞いた子のショックたるやどれほどのものかと思います。
「 わからない 」んです。いよいよは。親子とはいえども別人格ですから。エスパーじゃないんですから。すべてがすべてわかる人などいない、そのことは魂レベルで子も分かっていたんだろうと思います。
じゃあ何が必要だったのか……。子は何を親に求めていたのでしょうか……。
「 わかろう 」とする寄り添い
子に必要なもの、僕は「 わかろう 」とする寄り添いだと思います。
で、これ( 寄り添うこと )は、経験したことがない人には到底不可能なことと思うのです。
親のようにはならないと決めて子育てをしたとしてもうまくはいかない|宗教家の書くブログ | ![]() |
人間、してもらったことしか出来ません。
「 わかろう 」と歩み寄られたことがない人に、どうやって歩み寄る術が、方法が思いつくのだろうと。また思いついたところで、未経験なのだから、どこまで寄り添っていいのかしらと思うだろうと。
だから、これはあくまで想像ですが、先ほどの記事の問題は、摂食障害の当事者というよりも親にあって、親が寄り添うという経験がなかったため、摂食障害という一つの形が現れたとき寄り添うこと(「わかろう」とする歩み寄ること )が出来なかったのだろうと思います。
おわりに
人間、どうなるか分かりません。金光教では「めぐり」ともいい、確かな因果関係はわからずとも、先祖代々の犯したご無礼が代を超えて今この世に生きている者の身の上に現れることがあると、それが「めぐり」。
その「めぐり」はご信心で取り払えると、教祖様はそう教えてくださいました。
大きな難儀、小さな難儀、神様を信じる信じないに関わらず、実際に目の前に現れてきているのだけは確かなことですから、親としてはなんとかしてやりたいと思うのが常でしょう。
その術として、「 一生懸命やりました 」とは次元の違うものがこの世にはあるのだと、ご信心をさせていただき思うようになりました。
寄り添うというのは、5年10年、もっと言えば一生をかけて、もしくは代を超えてかもしれません。
でもですね、ご信心させていただけば、「 あなたのことがわからない 」とか「 いいかげんにしろ 」なんて口が裂けても、わが子には言えないはずなんです。
絶対に言えない。それは、向かうべきところが神様に変わるから。祈れるから。願えるから。「めぐり」のお取り払いを。そう思います。
今苦しんでいる当事者たちに、何が足りないのか、この命を使って確認されたらと切に願います。いかがでしょうか。
この記事を書いた人須賀院崇徳(すがいんたかのり)
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