こんにちは。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。

今日は『 排他性 』について書いてみたいと思います。
逃げた先に何があるの?と自分に言い聞かせて
ある記事を見ました。以下、記事中の一節です。
でも、だからこそ、こんなヤツを面白がってやらなきゃどうするんだ。
こんな不器用なヤツの良い部分を探してあげて、愛してあげなきゃどうするんだ。
「アイツ、イタイよなぁ」なんて、誰でも言えるじゃないか。
その瞬間、1秒も脳ミソを働かせていないじゃないか。
記事中にあった番組「エゴサーチTV」も昨日観ました。確かに、エド・はるみさんの発言では「あれ?」と思うところがいくつもありました。
それは、繊細ゆえ引き寄せられるべくして問題ごとが引き寄せられているなぁと感じるところとして。( 個人的に年齢での発言は嫌でしたね。年齢の若い女性に「 あなたの年齢では分からないけれど…… 」という発言。。 )
総じて、考え過ぎはしんどくなるように思います。出来れば、何にも気にならなくなれたら、人生幸せに生きられると思うのです。ただ、、、
そう簡単には生きませんし、どうしたって気になってしまうことがあるのかもしれません。気になるクセもあるでしょうし。
そしてその何かとてつもなくめんどくさいと思うぐらいに気にしている人を前にして、自分がどういう対応を取るかということが、今回の論点でした。
僕も、とてもめんどくさいぐらいに気にするクセを持つ当事者でしたので、当時相手に与えていたであろう影響をも考えもしました。
気にならなくなるおかげ|LINEBLOG 宗教家@武蔵小杉 須賀院崇徳 |
その時に、何かとてつもなくめんどくさいと思うぐらいに気にしている人を前にした時に、自分の中にある『 排他性 』にあらためて気付いたわけです。
とてつもなくめんどくさいと思うぐらいに気にしている人を前にして、あぁこの人はやっかいな人、変な人、近づかない方がいいで終わらせていいんだろうか。
その先に何があるのだろうかと常々思います。逃げて逃げて逃げて、その先に何があるのだろうかと。宗教家としても特に。多分、それではいけないのだろうなぁと思うわけです。
心の奥底にある排他性にあらためて気付かされる
そう言えば、以前、師に教えていただいたことも同じようなことでした。ある氏子が次のように言ったのです。
教会というのは、生ぬるい所ですなぁ
ある氏子の言葉
言葉の真意はこうです。『一般社会で通用しないよっていう人でも教会では何とか他の皆とも仲良うやって行けたり……』というもの。
これに対して師の言葉が次です。
私からしたら、世間は甘いですわ。会社は甘いですわ。この人は使えないと思ったら、切ったらいいんですものね。それで済むんですものね。楽やないですか。けれども、神様はね、そういう社会の網の目から漏れ落ちるような氏子こそ、助かって欲しいと願っておられるんです。
師の言葉
そのための広前、神様の広前ということです。そして取次者、宗教家です。
何か、僕の中で、先ほどのキングコング西野さんの言葉と師の言葉がリンクしました。「 こんなヤツを 」と「 社会の網の目から漏れ落ちるような氏子 」がつながったのです。
そして、あらためて自分の心の奥底にある『 排他性 』を見つめ直しました。どこかで線引してやいないだろうかと。
おわりに
さわらぬ何とかに、とも言われますが、目の前に現れたというのも神様の尊い尊いお繰り合わせ( メッセージ )だと思うのです。
それを我を出して、めんどくさいから関わらないようにしようというのは、ある意味、神様からのチャンスを無碍にしていることにほかならないのかなぁと。
チャンスです。お育ていただくチャンス。言うは易しなんですよね。心に留めてここからのお繰り合わせをお願いさせていただきます。
いかがでしょうか。
この記事を書いた人須賀院崇徳(すがいんたかのり)
*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。