おはようございます。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。

今日は人が変わる段階について、また誘う側のタイミングについても書いてみたいと思います。
人は変われるの?
かくいう僕も変わりました。変わった自覚が十分にあります。変えていただいた。
変わった後、文章にも書くぐらいですから、今の状態は良いわけですが、変わるタイミングは人それぞれで、誘う側がそのタイミングを見誤ると、悲劇になることを思います。これは、実際の現場から痛感していることでもあります。
僕は毎日毎日、お結界という場所に端座して、お参りされる氏子の話を聴いて聴いて、聴くわけです。それが僕の役割、命の使い方です。分かりやすく言いますと、相談される側なわけです。
昨日あるTweetを見ました。次のようなものでした。
相談する→最初は親身に聞いてくれるが、途中からダメだしに変貌する→結局、あれ?なんで俺怒られてんだろ…ってのがもう何回も繰り返されてる。上司や親が自分本意で自論を展開しまくるから、相談する側も、もういいやってなる https://t.co/aDXUJNqNuf
— tomo@法律 × 臨床心理 (@OjyouK) 2016年10月13日
思い当たる節が多々ありすぎて、リツイートさせていただきました。。
「 もういいや 」と思われないための聴く姿勢
Tweetの最初は親身に聞いてくれる『が』、ここがとても重要と思います。「が」と付いていますから、実はそうではなかったという、上げて下げての、絶望感を新たに与えてしまうことになりかねない、ということを想います。
冒頭にも書きましたように、タイミングを見誤ると、引用Tweetのように、相談する側が「 もういいや 」となってしまうのでしょうね。
けれど、あえて言いたいのですが、言わないといけないタイミングはあると思うのです。
僕も言われたタイミングがありました。もちろん聴いてもらった時間は相当に長くありましたが、たとえば、道理やみ教えを、言われるタイミングが、僕の中にあったわけですね。それがマッチしたから変わった。理解も出来たし( 理解したいと思えた )、自分で語れるようになったのも、そのためであります。
それぞれに、勇気を出して相談してきてくれたことは、間違いありません。
ここからはタイミングの探り合い、根比べでもあります。やはり、ここでも自分でやろうとすると無理がでるのが、「 もういいや 」のそれだと思います。
おわりに
何事もお願いしながらですね、あらためて……。
少し慣れてきますと、「 この辺かなぁ 」と、道理やみ教えをフライング気味に言ってしまう、言いたくなる自分がいて。
相談された相手も、「 はい、はい 」と聞いてくれてはいても、心の中では「 もういいや 」なのかなと。だから参拝が続かないのかなぁとも思います。
だから、なるたけ「 もういいや 」と言わせない、思わせない努力は、僕の方でもするべきことだと思わされました。
良かったらこちらの記事もどうぞ。人間、変わる瞬間が、確実に存在すると思っています。誰にも。
自分は能動態?それとも受動態?伝えるためには能動態への変化を。|宗教家の書くブログ | ![]() |
ここからも、あらためて……。いかがでしょうか。
この記事を書いた人須賀院崇徳(すがいんたかのり)
*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。