こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。

今日は「 生きるのに疲れた 」と思ってしまった人へ向けて書いてみたいと思います。
「 生きるのに疲れた 」
生きるのに疲れたというぐらいですから、それまでは「 生きよう 」と思っていたわけですよね。けれども何かがキッカケとなってつまずいてしまった。そして立ち直れない。立ち直るのがどうにも困難と判断されてしまって「 生きるのに疲れた 」と思ってしまうのかなぁと。
僕にも経験があります。今でこそ思わないですけれども、大学生の頃なんか口癖が「 ダルい 」でしたから。一生懸命に生きることにカッコよさを感じなかったという側面もありますが。会社に入ってもそれは続いて。次第に身体も心も疲れていってしまいました。
それから、「 ダルい 」とか「 疲れた 」と言い続け、その言葉を自分の耳でも聞いているものですから、自己暗示にかかってしまっていたのです。今想えばのことですが。
そうして、本当にダルくなってしまった、疲れてしまったのだろうなぁと思います。思い込みも同様。それがネガティブなら危険です。ずっと思っていると、本当にそう思えてきますので、ここも注意点ですね。
その奥にある「 微かな叫び 」
さて、それでも疲れるわけです。一生懸命ここからここからとやろうにも何とも生き辛い。そんなイメージばかり……。
ここで思うんです。言葉の端々に現れるのが逆説だと。そんな逆説なんて、苦しみの渦中の方はなかなか受け入れられないかもしれませんが。。
生き辛いも、生きたいけどそれ以上に辛い・苦しいという、そうして出てきた想い・言葉だと思うのです。
毎日のようにかかってくる電話相談、「 生きるのに疲れた 」「 死にたいです 」「 消えたいです 」「 どうしたらいいですか 」と聴かれ続ける中、師に教えをいただくまで僕は、「 もう少し頑張ってみて 」とか「 死んではいけない 」とか「 あなたが消えたら悲しい 」とか「 ○○したらいい 」とかとか、疑いもせず思っていましたし、言っていたと思います。でも違っていました。
死にたいという言葉でしか、苦しみを表せないだけなのです。
言葉に振り回されないで、その奥にある「 微かな叫び 」にじっと耳を澄ませてあげてほしいです。
師の言葉
よく傾聴をされる方は知っておいた方がよいこと|思いもよらなかった心理について|宗教家の書くブログ | ![]() |
苦しいんですね。苦しんでいるんです。そこの前提をよくよく分からせていただきながら、ここからも接しさせていただきたいですね。不用意に踏み込むとかえって傷口が拡がることも多いですから。受け手は良かれと思ってしたことも。
おわりに
「 生きるのに疲れた 」と思ってしまった人、さぞかし苦しんでいることと思います。その苦しみを感じることさえ疲れているかもしれませんが、誰かに聴いてもらうのが良いと思います。それが必要。今は心の中のコップの水がいっぱいなのだから、たとえ良さ気な言葉を受けたとしても何を聴いてもハジいてしまうように思います。
そして、その誰かなのですが、このブログにも書きましたように誰でも良いというわけではなくて、「 生きるのに疲れた=苦しい 」というところを分かってくれそうな誰かに聴いてもらうことが良いですね。そうでないと、良かれと思って投げかけられた言葉に、余計に苦しめられる結果となるかもしれませんので。。
今苦しんでいる人が渇望しているもの それは受け止めてもらったという自覚ではないでしょうか|宗教家の書くブログ | ![]() |
いかがでしょうか。
この記事を書いた人須賀院崇徳(すがいんたかのり)
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