おはようございます。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。

目に見えない想いの中で
どんな表現でも、正しかろうが、間違ってようが、相手( 自分 )の受け取り方が全てで、思った通りに受け取ってくれないなら、受け取れないなら、それはそれで、仕方のないこと…です。
この感覚じゃないと、「 こんなんじゃいけない 」とそんなことばかり……、それではこちらが助からなくなると切に思います。
だからと言って、伝わらなくて良いのか。うまく受け取れないのが良いかと言えば、神様は、諦めは願われてはないのではないでしょうか。
聞き分けのない子供ほど不憫で、むしろ、そんな子ほど助かってもらわなければ、そのように願われていると思うのです。実際願ってますし。
このときの祈りは、涙が出そうなぐらいに、何もできない自分( 親 )と、分かってくれない相手( 子 )と、それが現象として目の前にあるだけなんですね。
金光教の教祖・生神金光大神様は、
言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。
教祖さまのみ教え
と、教えてくださっています。
なかなかに。「 ままよ 」とは「死んでもままよ」のことです。
たとえ、どうしようもないことでも、そう感じてしまったとしても、ままよと思うて、壁にぶつかればぶつかるほど、この思いなくして、乗り越えられることなどないと強く感じます。
裏を返せば、どんな状況下でも諦めなさんなよ……ということでしょうか。
親である神様はそっと静かに、見守ってくださっております。聞き分けのない子どもが、一つ一つ成長していく様を。
そんな目に見えない、けれど省略など出来ない想いの中で、僕たちが生きていることは事実なんです。
いかがでしょうか。
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この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)
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