2017年9月3日日曜日

トイレ論②


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。


トイレ論②
教会の働きはトイレ。ならば私は便器。

今日はまたまたトイレ論について書いてみたいと思います。

教会の働きは便所。ならば私は便器。

宗教とか神様とか言ってしまうと、何か高尚な、近寄り難いと感じられたり、だから身構えてしまったり……いかがでしょうか。

もしくはあまり良いイメージがない場合は、一度入ってしまったら抜け出せない危険な所なのでは云々カンヌンと。

一生……一生必要なものというのは、まぁこれは実際に有り得る話ですが、それはつまり、便所ですからね。必要なときに行くものですし、そしてそれは生理現象なのですから一生なものというのは、そういうことです。

便器は良いも悪いもダメも言いません。

この辺りの、便所なのに、便所なだけなのに、神様がどうだ、信心がどうだとか。「 お前の信心は間違っている 」とか言い出すからおかしくなるわけで。間違った信心なんてあるのでしょうか。間違った排泄の仕方……、便器の枠外にしてしまうとか、排泄は必要ないんだとか言っているとか、そんなんでしょうか。「 お前の信心は間違っている 」とか聞くと、そんな議論のようにも思えます。

それよりもまずは宗教家が動かないことだと、切に思うようになりました。宗教家が居ないというのは「 そこにない 」ということですから、いうなればトイレの扉を開いたら便器がありませんでした、ということですから。

どんな理由であれ、参られる方の生理現象なのですから、宗教家が席を外すということは排泄を止めろと言っているようなもの、そういうことなんだろうと思うのです。こと金光教に関しては話を聴く取次とりつぎが肝ですから、それは他宗に比べてなお一層ということです。

トイレです。便器です。ひたすらに受けます。否定も肯定もしません。何なら「 ご祈念しております 」とか「 神様にお届けさせて頂きます 」とか便器から返ってきます。そこで排泄している本人も神様に向かうという信心が始まります。

だから、スタートから難しくしないことです。難しくしたら出るもんも出ません。まずは出すこと。出す場所ですよ、ということ。そして出しやすい自分( 便器 )になることが求められているのだと強く思うようになりました。

この話をすると大抵の人がキョトンとしますが、教祖様が仰られた『山の中の雪隠せっちん( トイレ )のようなもの』はそういう意味だと思うのです。

繰り返しますが、便器が良いね悪いね言いますか?言いませんね。その便は良し、その便はダメだなんて絶対に言いません。良いも悪いもなく、ただただ受けるんです。

おわりに

という話を、まだ教会に近しくない氏子によく話します。今日もあるご家庭のみたま祭り( 仏で言う法事 )で話しました。

苦しんでいるのは詰まっているからです。便秘でも苦しくなります。気持ち悪くなります、思いを吐き出せないというのはそれと同じですよ、ということ。

「 自分はこう思っているんだー 」ということを「 そんなこと思っちゃダメ 」なんて止められて苦しんでいる人がたっくさんいます。そして、吐き出せる場所というのが、世の中にありそうでないわけですから。

金光教のお取次とりつぎが担う働きも、今後より一層重要になってくるんでしょうね。そう思います。

いかがでしょうか。

これまでトイレについて何個もブログにしたためてきました。良かったら合わせてどうぞ。だいたい同じことを書いています。

畏まるというより敬意を|排泄という生理現象と同じようなこと。分かれば自然と畏まる|宗教家の書くブログ 畏まるというより敬意を|排泄という生理現象と同じようなこと。分かれば自然と畏まる

人に想いを伝えること|LINEBLOG 人に想いを伝えること

吐き出すことで得られる効果|LINEBLOG 吐き出すことで得られる効果

トイレ論|LINEBLOGトイレ論

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


メールdeお取次
実際にお取次を受けてみる

BLOGRANKING
投票者になる
投票は1回/日 有効です.
応援ありがとうございます.


シェアしていただけると嬉しいです.