2017年9月11日月曜日

「 徳 」でも「 み教え 」でもなくて『 辛抱 』


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。


「 徳 」でも「 み教え 」でもなくて『 辛抱 』
万国まで残りなく金光大神でき

今日は教祖様が抱かれた世界救済に必要な「 金光大神 」、その「 金光大神 」になるために必要な要素について思うところを書いてみたいと思います。

教祖様の世界観と私たちのイメージ

まず金光教は教祖様が亡くなられたあとに形作られたもので、ですから教祖様は金光教がどうのこうのではなくて、ひたすらに神様にわが心を向けるご信心をされていました。

最初は身の回りの近い所から。そして、晩年には「世界救済」へと想いは膨らんでいきました。ここを背景として。

「 世界救済 」と言いますと、とても大きなことなのですが、大きさばかりに目を向けてしまうと何がなにやらとボヤけてしまいますし、一体どうすればいいの?となってしまいますが、教祖様が抱かれた世界観はそうではなくて、もっと身近な、もっと手元のことなのではと僕は思っています。

万国まで残りなく金光大神こんこうだいじんでき

教祖さまのみ教え

これがすべてのように思います。

ここで、金光大神こんこうだいじんというのは何?ということですが、これは、教祖様のことであり、そして人助けに生きた( あえて過去形 )『 人 』のことと理解しています。僕もあなたも含まれるということです。ただし、人助けに生きたという条件付き。

金光大神は、なれる!

最近強く思うようになってきたことがあります。それは、金光大神はなれるということです。

えらく謙遜する人がいます。教師にも、信者の中にもたくさんいます。「 私なんかが金光大神なんて…… 」と。

これまでは、そうなのかなぁと思っていました。金光教の教師にも色々と立場があるし、ましてや、信者に求めるのも酷なのかなぁと。けれども、そもそも教師というのも誰が決めたのか怪しいなぁと思うようになりました。

金光教の教師……。一応、岡山にある本部に一年行けば( 2017年現在 )免状がいただけるものですけど、人助けに生きた人かどうかはまったく別で、それは金光教の教師ではありますが金光大神なの?という疑問が強くなってきたのです。

で、教祖様は『 万国まで残りなく金光大神でき 』と仰られたわけですから、全国に3千人以上の金光教教師がいますけれども、それで万国までなの?と。

そう考えると、僕の考えはここ( 教師と教師の役割部分と、教師と信者の役割部分 )に線を引いてしまうとおかしくなるというか、狭くなってくるというか、そんなことを思うようになりました。

そして次に、どうすれば金光大神になれるの?ですが、先ほどもいったように、『 人助けに生きた 』がとっても重要で。じゃあどうやったら人助けに生きたになるの?人は助かるの?という、おそらくここがポイントになってくるかと思います。

人助けに生きた?どうすれば?

まず「 徳 」がなければ……。「 徳 」もちろん要ると思います。それから、十分に「 み教え 」を知らなければ……。「 み教え 」も必要と思います。けれども、一番重要なものではないと思うようになりました。

一番重要なもの、それは、「辛抱」だと思い至りました。

まずは「 辛抱なら私にも 」、と思われる方が多くなるのではとも思いました。そして、それが一番重要なんだと。ちょっと元気が出てくるように思います。

まぁ「 辛抱 」も、いきなりやれと言われても難しい限りではありますが、ちょっと考えてみると……。

金光教にご縁のある方ならお取次をいただいたことがあるかと思います。そのとき、お取次の先生とわが問題事を共有し、一緒に辛抱し、乗り越えてきた経緯が誰もにあるのではと思います。そしてこのことが『 人助けに生きた 』に最も大事な要素なのだと思っているのです。

少し体験談を。数年前、御用の上でも身の回りの上でもどうしようもなく追い込まれていた時期があり、毎日のように「 辛抱させてください、辛抱させてください 」とお取次願っていました。( そうするよりほかになくて )そうしましたら師は、

あなた自身、神様にも先生にも、ご辛抱していただいての今だということを、心に留めておかれますように。自分がしていただいてきたことをわすれずに、人のことを辛抱しいしい、祈らせていただくことです。

師の言葉

と、教えていただいたことがあったのです。

僕の心は軽くなりました。あぁ一人じゃない、そう思いました。それまでは一人で辛抱しているかのようでしたから。それこそ、歯を食いしばりながら……。

以来、ニコニコとしながら「 今日も一日辛抱させてください 」と、追い込まれるでもなくこちらから願えるようになりました。それはそれは大きな変化でした。

僕はこの体験を通しても、金光大神できと教祖様が言われ、じゃあ金光大神は誰が?と思うのですけれども、それは決して選ばれた人でもなんでもなくて、「 辛抱してもらった経験のある人 」ならすべて当てはまるのでは、そう思うようになったのです。

まさに親子なんです。親が子のために辛抱する。親はそのまた親に辛抱してきてもらったことを糧にして。

だから、人間である以上、気付く気付かないは別として誰か( 多くは親 )の辛抱の上に生きているのが大半で。他の辛抱に気付き、自らも誰かのために辛抱に生き、そして人が助かったなら……。これ以上ありがたいことはないのでは、そう思うようにもなりました。

おわりに

まとめますと、

  1. 世界救済には万国に金光大神が出来ることが必要
  2. 金光大神は『 人助けに生きた 』人なら誰でもなれることができる
  3. 『 人助けに生きた 』に必要なのは「 徳 」でも「 み教え 」でもなくて『 辛抱 』

ということです。

求めさせていただく中で、ここまで理解出来るようになりました。

辛抱する人生なんてまっぴらゴメンと言われる方もいるでしょう。何のために生きたら良いかと途方に暮れている方もいるでしょう。僕は、『 人助けに生きた 』を目指すことで命が救われました。本当に、ニコニコと辛抱させてください、今日もそう言っているのですから。

いただいた命をどう使うのか。一度立ち止まって考えてみるのも良いのではないでしょうか。

いかがでしょうか。

トイレ論②|宗教家の書くブログ トイレ論②

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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