2017年6月29日木曜日

動いてみた結果―それでも2年半座ってみて


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。


動いてみた結果―それでも2年半座ってみて
初志貫徹:石の上にも3年とは言いますが……

結界けっかい」の『場の力』についてあらためて。この2年半で感じたことなどを。

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座りはじめてすぐ動くことを選んだあの日

思い起こせば2年半前に代替わりとなるご時節をいただいて代を継承させていただいたわけではありますが、そのときの僕の気持ちは、「 何かしないと…… 」と焦燥感いっぱいでした。

それで取った行動が、「 外の御用はお断りしてひたすらお結界に座ろう」というものでした。師匠を師匠として仰ぎ始めたのもこの頃でした。

座りはじめてまもなく師匠から、

ただお結界に座っているだけでは、所詮は我流の取次でしかなく、人が取り次ぎ助けられるわけではないですから

師の言葉

と言葉いただき、座ったばかりで僕の心は激しく動揺してしまいました。

師匠の言わんとしていることは、取次を学んでいかなければ……、というものでした。学ぶべきものを言葉にするならば、『金光大神流の取次のわざ』。

それでも初志貫徹が大事だろうと、僕は動きませんでした。でも1ヶ月後には動くことを決意しました。それは正直に怖くなったからです。

何が怖くなったのかと言えば、ここに参っている氏子の命を預かっているという想いがグワーッと押し寄せてきて、を通して座ったは良いものの「 氏子が助からなかったら…… 」、そんな気持ちになり怖くなりました。急に。

僕が座る。数年経つ。「 はい座りました 」で、氏子が助かっていなかったら……それでは座った意味もなければ、代を継承した意味もなさないわけです。それはつまり神様の顔に泥を塗るようなもの……。

そうして僕は月に一度『金光大神流の取次の業』を学びに行くようになったのでした。

今となってはこの自信の無さに感謝したいほどです。よく動いたなぁ、と。

いよいよ何のためにこの『』に座るの?

師匠からは色々と学ばせていただきました。すべて実施で。

どういう気持ちで座るのか、どういう気持ちで氏子の一言一句を聴いているのか。それは、取次する者の「 構え 」であったり「 姿勢 」であったり、です。

そしてここが重要ですが、僕はこれは「 出来る限り 」という言葉では許されないものなのだと感じ入りました。言葉にすれば「出来る限りで座りました 」というもの。それは言い訳に直結するとさえ思えてきました。

僕が座らせてもらっている『』はそういう所なのだと、そんな気持ちが一層強くなりました。

だからこそ、お結界という『』を殊更に大切にしたいと思えるようになったのです。それは氏子のためでもあり、ひいては自分のためでもあったわけです。僕の命の使い方なわけですから。

こうして2年半、いろいろなことがありましたが、悩むことはあれども、迷いなく元気に座らせていただけているのも、『金光大神流の取次のわざ』を学ぶ、という大変力強いルートが出来たからのことと思います。

最近、『場の力』はやっぱりあって、それが十分に発揮されるなぁと感じられる教えに出会いました。それが「氏子の信心を奪わないこと」というものです。

どういうことかと言えば、氏子が信心しなければイケない所を、取次者が案じるがゆえに氏子の先をいってしまって、氏子がまだ言葉に出来ていないのにも関わらず「 辛いね、お願いさせていただくね 」と。

本来であれば、氏子のほうが「 本当に辛いです。神様にお願いさせていただきます 」と言わないとイケないところなのに……というもの。

これは、お結界でなければ発生し得ない距離感・空気感と思うのです。お結界の緊張感も相まって炙り出されるような感じ。

だから、お結界を下がって、話しやすい場に移って、お茶を飲みながらでも氏子の悩みを聞き出せたとしても、それはあまり意味のないことなのだなぁと強く思うようになりました。

その聞いた悩みをもって取次者は氏子のことをお願いすることが出来ますけれど、「 氏子の信心となる 」と考えるとやっぱり違うでしょうから。この辺は先ほどの記事に書いたことと同じです。

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おわりに

僕も含めてお結界に座る取次者が『場の力』を感じるためには、やはり学ぶべきものを学ばないと、それはつまり「 どういう場所に座っているのか 」を知らないと、これは教えてもらわないと感じることさえ難しいのだろうなぁと思います。痛切に。

もちろん、そのまま座り続けても神様のおかげをいただけて、もしかしたら気付けるのかもしれませんが、僕の場合で言えば難しかっただろうと思えてならないのです。とってもの強い私でしたから。

あらためて「 何のために座っているのか 」、そもそもで「 何のために宗教家になったのか 」まで考えますと、それは氏子の助かりのためであって、そのために自分の身を神様に使っていただくためであります。

そう考えたらやっぱり、「 はい座りました 」「 やってみました 」は違うのだろうなぁと。

座りはじめて2年半経った今、よくぞ座りはじめに「学ぶべきもの」を提示し、促してくださった師匠に御礼申すばかりです。

ここからは実績だけです。実績を積む以外、僕の言葉には何の説得力もありませんから。実績とは氏子の助かりの総数でしょう。

それ以外はやはり我流で、自己満足で終わってしまいますから。『金光大神流の取次のわざ』を証明するためにもここからです。

またまた金光教色の強い記事になりましたが、初志貫徹を思い浮かべたら何か感じることがあるのではないでしょうか。いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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