2017年1月29日日曜日

宗教家【 広義として悩みを聴く人すべて 】としてのあり方について


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳( @TSugain )です。


仏教徒の写真ですが、宗教家としてのイメージはこんな感じです。。

最近よく思うこと。どうしたらご信心が伝わっていくのだろうの問いから、あることを思い出しました。以前聞いた言葉です。宗教家に求められるのは、『 人が良いのでも、話が上手いのでもなく、私を助けてくれる人かどうか』という言葉を思い出しました。

今日は、そのことを踏まえて、『 宗教家【 広義として悩みを聴く人すべて 】としてのあり方 』について、思うところを書いてみたいと思います。

宗教家として

金光教教師となって8年目(もう8年かぁ、、)、教会長として矢面やおもてに立ってより3年目(こっちももう3年かぁ、、、)になります。

これまでは、何か『』となるものが必要と思っていました。だから、言うこと( 取次者が提示する教え )に従えない氏子にも容赦なく「 分からないなら他へ行ってくれて結構 」というスタンスを、そんな宗教家像を、どこかで抱いてた節があります。教祖様の教える、『言うことを聞かぬ子は親もしかたがあるまいが』という教えを盾にして。。

それが宗教家だし、そうじゃなければやっていけないのでは、そんな気持ちでいたのです。ところが、大きく違っていたことに気付きます。

それは、師の「我流について」の教えから、僕の中で明らかになったことでもあります。

どこまでも目の前の氏子と

何かのやり取りで、「我流」という言葉が出てきて、そこでお伺いを立てたのです。「 我流って何でしょうか?」って。そこで返ってきた言葉です。今日はその言葉の一部を紹介します。

学ぶべきものを学びながら、その学んだものを糧にしながら、目の前の氏子のお取次とりつぎを通して、学ばされるのです。

学ぶべきものを学ばなければ、いくら氏子から学ぶべきものがあったとしても、その学びは消化されずに、ただの経験になる。生きた経験ではない。死んだ経験が、積み重ねられる。

師の教え

ここでいう学ぶべきものとは、教義もそうですが、もっと実施そのもの、「 お取次とりつぎ 」を、身を持って学ぶ必要があると理解しました。これは、本からや、はたまた、誰それのお話からでは、如何ともし難いことかと。

また、死んだ経験とは、助かっていない氏子( 一時の助かりがあっても信心が続かない )との経験、と理解しました。

これまでを振り返ってみても、ワァ~となりますが、実際そうなのでしょうね。

ですから、出した答え( 理解し納得できたこと )が、「氏子についていく」なのです。

おわりに

だから、「 これぞ信心 」とか「 これぞお取次 」なる持論や、「 分からないなら他へ行ってくれて結構 」というスタンスならば、氏子のちょっとした変化にも気付けなくなるのかなぁと。

まさに、宗教家としては、器を大きくするばかりです。そして変幻自在、どんな氏子にも合わせられる器でありたい、と切に願います。先は遠いですが^^;明るいです!!

いかがでしょうか。

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 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

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