2016年7月30日土曜日

やり過ぎはよくないけれどもどこまでもあざとく|おかげをいただくためのこと


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


やり過ぎはよくないけれどもどこまでもあざとく|おかげをいただくためのこと
わたしの行動が誰かに迷惑をかけているのではないだろうか……という想い

初参拝ありました。ありがたいです。聴けばこのブログを読んでくださっていた。ブログを書いていて良かったなぁと思う瞬間です。

その氏子とのやり取りの中であらためて思わされたことを書いてみたいと思います。

おとなしい信者

以前、わたしは「 おとなしい信者 」について書きました。

わたしが生まれるもっともっと前のことです。言葉は悪いですが、信者がもっとあざとかったという話。

それは、お話を聞くなら□□教会、おかげをいただくなら○○教会、と、使い分けていたのですね、信者が。東京地方は特にその色が濃かったと聞きます。

未だに疑問なこと|金光教の教会でお取次以外にしなければいけないものとは

この記事が印象深かったようで……そのことから、わたしが師をいただくまでの話になったのですが、「 あれっ同じだなぁ 」と思いました。

おかげをいただくためのあざとさ

何が同じか?それはわたしも一氏子ということです。紛れも無く、どっからどう見ても一氏子。

金光教の教師、教会長、取次者というお役の元、お結界けっかいに座れば、参られた氏子のお話を聴かせていただく側になるのですが、一度お結界を下がれば、一氏子です。参拝も必要となってくるというものです。

この辺りの理屈は分かっていたつもりでした。当然のですから。「 わたしは先生。もうお参りする必要はありません。 」では無いということを。

お参りして、お取次いただいて、ご祈念して、一緒にご祈念してもらって、おかげをいただいて……という上ではまったく同じなんですね。信者です、信者。

そう思えば、師をいただくということも、わたしにとっての取次者をいただいたということにほかならないわけです。この辺が分かっていたようで、分かったつもりでモヤモヤとしていたのだと気付かされました。

これまでは、取次者(宗教家:先生 )であるわたしが、人生の師匠をいただいたという、何か仰々しく、何か高尚なもののように勝手に思っていましたが、そんなことはまったくなくて、あざとい一信者であるわたしがおかげをいただくために何の関係筋でもない師のお取次をいただくようになった、ただそれまでのこと、なんだなぁと。

ここがすごくスッキリとしました。

今までは、どこか申し訳ない気持ちもあったのです。わたしのこの突拍子もない行動が誰かに迷惑をかけているのではなかろうか、と。実際言葉でも言われましたし、けれどもです。

代替わり時に生じるマサツ|師が変わればなおさらのこと|宗教家の書くブログ 代替わり時に生じるマサツ|師が変わればなおさらのこと

あざとい一信者であるわたしが、おかげをいただくために、その教会を、その取次者を選んだわけです。これでいいんだと、思えることが出来ました。初参拝者のおかげです。ありがとうございます。

おわりに

twitterにも書きましたが、それでもそんなわたしを信じていてくれる師の存在( 先につながる神様 )が心強くも、わたしを前に前にと進めてくれております。

ここからも信心辛抱しながら、神様の人助けにお使いいただけますように。いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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