2016年7月1日金曜日

外してはならない事がある|金光教のお結界という場所


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


外してはならない事がある|金光教のお結界という場所
武蔵小杉教会の現在のお結界けっかいはこんな感じです。

7月を迎えさせていただくことが出来ました。今日は結界取次けっかいとりつぎについてあらためて書いてみます。お結界けっかい・ご祈念についてはこちらを参考に。

金光教のご祈念のしかた|金光教武蔵小杉教会の場合|宗教家の書くブログ 金光教のご祈念のしかた|金光教武蔵小杉教会の場合

場に助けられている

お結界という「 場 」のことについて。以前師より、

場に助けられているということを忘れてはいけない

師の教え

というように教えていただいたことがあります。それまでは諸先輩方( 金光教の教師 )が「 取次の場はお結界だけではない 」というようなニュアンスのことを言っているのを見聞きしておりましたので、もちろんお結界という場は大切だけれども、そこまで固執する必要はないのかなぁと、あくまで祈りながら聴かせていただくという姿勢が大事なのかなぁと勝手に思いこんでおりました。

でも、違うんだなぁということを、師の教えから思わせていただくようになりました。

最初を外すとズルズルと……

先ほどの師の教えはあるときにいただきました。はじめての方がお参りされるということが分かったときのこと。

「 お結界は何か畏まった場所だからはじめての人は話しづらいかなぁ 」「 ご祈念はするけれども他の部屋にいってお茶を飲みながら話した方がいいかなぁ 」と、そういう具合に僕が考えて実際にそうしようかと、そんなお届けを師にしたときにいただきました。

お結界を外してはならない場なんだなぁと今では心から思います。一度外すと、戻りづらくなるんですね。そう思います。こちらが良かれと思ってしたことが氏子をお結界から引き離す行為になりかねないということをあらためて思います。

考えてもみたら、この武蔵小杉教会でもお結界でお届けが出来ない氏子が何人も出来ておりました。じゃあその氏子たちのお届け( 本音 )はどこで聴くのか。それは直会会場なり会議室なり、そうなってしまっていたんですね。

で、どうなるか。お結界が形式的なものになっていってしまっていたのです。お結界で「 お礼とお詫びとお願い 」を定型文のように言って、それでおしまい。そのあとは席を移して会議室なりでお茶を飲みながら「 いや実は先生ね…… 」と。

これもそれも最初に外したからだなぁと容易に想像出来ます。もしくは取次者の側に「 お結界は話しづらい場所 」という先入観があったからだと感じます。実際に僕もありましたし。

話を聴くのが目的だから場を変えて……など、教祖様が「お結界」という「」を作られた意味と、そこに座り続けられた意味を想いますと、何か違うなぁと思うようになりました。

もうこれでは、「場に助けられる」ということからは遠ざかり、ややもすると「 お結界に座り生神金光大神様の手続きをもって聴かせてもらっている 」ではなくて「 あなたの話を私が聴いている 」となってしまうのではないかなと思います。

おわりに

すごく内向きな話で金光教を知らない人からすると「 ? 」というブログ記事になりましたが、一般的に言うならば、「外してはならない事がある」ということですね。それはどの分野にもあると思います。

外してはならない事がある」ということを金光教のお結界けっかいからあらためて気付かせていただきました。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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