2016年5月7日土曜日

敷居が高いとか言うけれどそもそも信心は高尚なものではないはず


おはようございます。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


敷居が高いとか言うけれどそもそも信心は高尚なものではないはず
夜しっかりと何があったのかをちゃんと伝えること

「 ご信心しんじん 」「 お取次とりつぎ 」、敷居が高いとかよく言われますが、全然高尚なものではないのに、と思うのです。今日はそのことについて。

高尚なもの……という先入観

信仰、信心、神、御霊みたま(仏)、これらの言葉を聞いただけで、素人が入ってはいけないようなそんな感じを受ける人も中にはいるようで。

礼儀を知らなければいけない、作法を知らなければいけない、教義を知らなければいけない、などなど……ご信心をさせていただく前段階として、知らなければいけないことがいろいろとあるように感じるようです。

もちろんわたしも感じたことがありました。周りの人がやっていることをしらないだけで、気後れしてしまうというか、そういう感じですね。

けれども、そうではないと強く言いたいです。誤解していますよ、と。

わたしも毎日、師にお届けするようになり早いもので一年が過ぎましたが、先日このようなことを教えていただきました。

夜しっかりと何があったのかをちゃんと伝えることです。

師の教え

それまでは朝一番にしていたのです。

お届けの内容としては、「 今日も命をいただきました。今日は○○、□□、△△をさせていただきます。それぞれ万事にお繰り合わせをいただけますように 」、という具合です。

子が親に一日の出来事を報告するように

まぁ命をいただいた御礼こそありましたが、お願い中心になっていたのですね。これは「 今 」を見るというよりは「 先 」を見ていたように感じます。

で、師に教えていただいて気付いたのですが、今日一日あったことを伝えるって、子どもが親に一日あったことを報告するのとまったく一緒だなぁと思いました。

日常会話です。「 今日○○君と遊んで楽しかった~ 」とか「 でもね、いやなこと言われちゃったんだ 」とか。その一つひとつを、親に「 うん。うん。」と聴いてもらう。この働きがありきたりなんですけど、すごく大事なんだなぁということを感じました。

子どもとしては親に伝えることでスッキリしますよね。スッキリするということは心の整理がついているということです。

そして、親としては子どもが報告してくれたことがありがたいですし。そしてその報告をもって神さまにお願いすることが出来ます。

これが……親子関係がうまくいっていないとですね、このありきたりな日常の報告のやりとりがそもそも出来ていないから苦しくなってくるのだなぁと感じました。

お取次もこれに準じています。神さまと人間は親と子に例えられますし、取次者と取次願う者の関係も、親と子として同じ間柄です。だから親と子なんですね。

愛情をかけてもらった( と感じる )経験がない人は親にすらなれないのかもしれません|宗教家の書くブログ 愛情をかけてもらった( と感じる )経験がない人は親にすらなれないのかもしれません

なのでお取次がどうこうということよりも、今日一日あったことを夜しっかりと伝えられるかどうかということが大切で、その働きが子としてもっとも安心できることなんだなぁと思うのです。そのようなことを感じました。

おわりに

そう考えると、まったく高尚じゃありませんよね。

まぁ言葉遣いは多少あれども「 今日○○があったんだぁ 」ということです。それが大切ということです。そう思います。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

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