2016年4月6日水曜日

「 いま 」を真剣に生きるために必要なこととは?


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


「 いま 」を真剣に生きるために必要なこととは?
受け止められることが必要です。神様と、あとたった一人でいいから……

今日もアドラー心理学『 嫌われる勇気 』より。これは金光教というよりは、わたしが師から教えていただいてきたこととリンクするところがありまして。

「 いま、ここ 」に強烈なスポットライトを当てよ

「 いま、ここ 」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなる

自己啓発の源流「アドラー」の教え『 嫌われる勇気 』より

「 いま、ここ 」を真剣に生きること、『 嫌われる勇気 』では「 生きること 」を「 踊る 」と表現していますが、どちらにしても「 いま、ここ 」を真剣に、ということです。

そして以前、わたしが師にいただいた言葉がまさしく同じものでした。それを思い出しました。

しっかりおどれ。

お広前で神様にアピール。ファン( 参拝者含む周囲の人 )にアピールでなしに、監督( 神 )に一生懸命やってますとアピールすること。

師の教え

まったく同じですね。

周りの言動に左右されていた。師から言葉いただいたとき、わたしの心境はこうでした。だから目の前のことが手付かずだったのです。

けれどお取次いただき、受け止めてもらい、お言葉いただき、「 そうだ、よし!ここから 」と思えた記憶がありますね。それから、今こうして、あらためて心理学の本と出会い、同じ言葉を見聞きしていることにビックリしているのが正直なところです。

座ること

師より言葉をいただいたのは、ちょうどわたしがお結界に座り始めるころ、今から一年半前。いろいろなことがありました。大げさでもなんでもなく、心はメチャクチャだったと思います。

そんな心境でのお届けに対しての言葉だったと思いますが、今では、しっかりとおどらせていただいています。

今のわたしの「 踊る 」はお結界に「 座る 」こと。遊ばせていただけるとよいねの言葉もありがたかった。原動力になりました。

座る前は「 3年間座ります!一生懸命ガンバリます!!」と、鼻息荒く周囲の人に言っていましたが、なんてことはない、一日一日のことなんだなぁと一年半たった今強烈に思います。あと一年半と思いはするけれども、それまでのこともそこからのこともそんなに考えていません。

と同時に思うのが、自分自身の健康はもとより、周りの協力あってこそだなぁとも思うわけで。「 座る 」じゃなく「座らせてもらっている」これが正解、そう思います。

これからのことは正直分かりませんが、「 いま、ここ 」を真剣に「 踊る 」ことは一生涯変わらないことなのだろうなぁとは思えるようになりました。

そしてここでも、「 踊る 」のも「踊らせてもらっている」これが正解なのでしょうね。

それから『 嫌われる勇気 』を読んでグッときた言葉が「スポットライト」です。この表現がすごく分かりやすかった。

「 いま、ここ 」を真剣に、周りに揺さぶられずに、これを表現する言葉が「スポットライトをあてること」です。

ピカッとスポットライトがあたるから眩しくて、周りがトんで、目の前のこと、スポットライトがあたっているところしか見えなくなる。まさに「 いま、ここ 」ですね。

周りは、実際見なくていいものなのです。でも「 いま 」にうっすら光をあててるから見なくていい周りが見えてしまって、またそれら( いまではない過去・未来 )を見ようとして心配しているお互いなのですね。

どうやって?誰が?

最後に、ここまで書いて、スポットライトがあたったら周りが見えなくなるのは分かった。けど、じゃあどうやってスポットライトをあてるの?誰があてるの?と思いました。そのことについて。

これ、自分ひとりでは正直難しいと思っています。

『 嫌われる勇気 』でも書かれている他者貢献などの「 役に立っている 」という貢献感も他者ありきですし、「 ここに居ていい 」という所属感も他者に受け入れてもらってはじめてのことですし、どれもが前段階として他者を必要とします。

ただあたりさわりなく人間関係をおくっているのではスポットライトはあたりようがないと思います。やっぱり「ふみこむこと」が大事なのでしょうね。どこかで。

覚悟だと思います。裏切られるかもしれない人間関係で、でも覚悟して踏み込んでいく瞬間が、まさにスポットライトがあたり始める瞬間だと思います。

覚悟|宗教家の書くブログ 覚悟

作中で哲人( 『 嫌われる勇気 』はアドラー心理学を推奨する哲人と悩める青年との対話形式 )が「 あなたが始めるべきだ 」と最後に力強く青年に言っています。それを聞いた青年が「 よしっ!」と思えたのは、青年の心に、「哲人に受け止めてもらった感覚」が生まれたからだとわたしは思っています。

それは金光教のお取次のようにです。参拝された氏子さんが取次者とりつぎしゃに「 受け止めてもらった 」と感じてはじめて「 よしっ生きよう!」と思えると思うから。

おわりに

「 受け止めてもらう 」も受け止める側からすると「 受け止める 」になるのですが、実際は「 受け止めさせてもらっている 」が正解かと思います。

させてもらっている以上、そこには対象があり、それが「 神様 」だと思うのです。ここまで言うと心理学を超え、宗教になるのだと思いますが、いかがでしょうか。ごくアタリマエのことのように思うのですが……

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見 一郎 古賀 史健
ダイヤモンド社
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アドラー心理学から神さまへの話になってしまいましたが、本当に面白い本に出会いました。ありがたいです。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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