2016年4月11日月曜日

どこへも持って行きようのない気持ちを抱えて、長い間神前でひれ伏した金光教の教祖さま


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。今日も新たな生命をいただきました!


どこへも持って行きようのない気持ちを抱えて、長い間神前でひれ伏した金光教の教祖さま
どこへも持って行きようのない気持ちを抱えて、長い間神前でひれ伏した金光教の教祖さま

昨日は月例祭でした。このお道を開いてくださっている教祖さまに月に一度お礼を申し上げる祭典です。その祭典で話させていただいたことを書いてみたいと思います。

もどしの風は十層倍

教祖さまは神さまに心向ける中、神様より何度となくお試しをお受けになられます。そのうちの一つのエピソードに『もどしの風は十層倍』というものがあります。これは教祖さまが生きられた地方の俗言で、あることの仕返しが、何倍にもなって返ってくるという意味です。

ある日、神は金子大明神( 教祖さまのこと )に、

小坂西村(現鴨方町)のおじ(貝畑久太郎)が亡くなったから、葬儀の準備をして、親類を誘って行け

と命じられた。(中略)家はひっそりとして、それらしい気配がない。声をかけると、久太郎本人が裏から現れて、「 文さ( 教祖さまのこと )、何事か 」と問いかけた。(中略)金子大明神の面目は、丸つぶれだった。

神は帰途についた金子大明神に、

常々、親族の者らが、其の方の信心をあざけり笑っているから、神が目を覚まさせてやった。『 もどしの風は十層倍 』と唱えながら帰れ」と命じられた。

(中略)家に帰り着くと、どこへも持って行きようのない気持ちを抱えて、長い間神前でひれ伏した

『金光大神』P137~138より

親族の中には教祖さまのご信心をよく思ってなかった人もいましたから、この一連のことを垣間見て「 ほら見たことか 」と思う人もいれば、一方で、「 このように事実に反する神のお知らせがあったのは、ただ事ではない。今、一家の心を改めなければ…… 」と思われる人もいました。

わたしが取り上げたのは、どこへも持って行きようのない気持ちを抱えて、長い間神前でひれ伏したの部分です。ここにご信心の真髄があるなぁと思いました。

今回のことで言えば、教祖さまが神様に心向けながら、その上で神様からお知らせがあり(ここではお試し)、それでもうまく相手には伝わらずに(思うようにならず)、そうしてまた神様から新たなお知らせがあり、それに従うしかない中で、どこへも持って行きようのない気持ちが教祖さまに生まれ、それをまたご神前で、ある意味事の発端でもある『神様』( もちろん教祖さまはそうは受け取られなかった )に心向けているわけですから。

ご信心ない人からしたら何のことやら意味が分からないかもしれませんが、それでも後々におかげになっていくことが、このどこへも持って行きようのない気持ちを抱えて、長い間神前でひれ伏したの部分のありがたさを証明することになります。

金光教では『 信心辛抱しんじんしんぼう 』とも呼ばれるようになりますが、これは、ただの我慢でなしに、神様とともに辛抱させていただくということです。

これ、もうやってみた人にしか分からないし、けれども助かるということだけは確かですね。そう思います。

で、お取次をいただきながら教えていただくことは、信心辛抱も一人*では続けていくのもしんどいだろうから( *神様とともになのですが生身の人間としては一人という意味 )、取次者の先生( 魂の親 )に伴走していただいて、ともにということがとても大切になってきます。大切であり、力強くもありますね。

わたしのこの一年半のこと

わたし自身、この教会の教会長としてのお役をさせていただいてより、早くも一年半経ちました。その間には短いながらもいろいろとあったなぁと思います。

まずは父が初代でしたから、今お参りしている信者さんのほとんどは父のお取次をいただいておかげをいただいてきたわけです。別の言い方をしますと、父のやり方についてきたということ。父に伴走してもらってきたということですね。

その中でわたしは縁をいただき二代目としてお繰り合わせをいただいたわけですが、どうしたって人が違うから仕方のないことなのですが、やり方が、進め方が、お取次の仕方が違かったのです。伴走の仕方も。

わたしはわたしで実際にお取次をいただき助けていただいた通りのことを信者さんにも進めてきたつもりでした。

その中で、最初はこの教会にも二代目が出来た!と喜んでいた古参の信者さんも次第に「 あれ?」と思うようになってまいりました。直接、言葉にも聞いていましたし、肌でも感じていましたね。

それでもわたしとしてはそうするよりほかやりようがなかったとしか、今でも考えられないのですが、師からは「 心配こころくばり 」として諭してもいただきました。

言われてみたら心配りに欠けていたなぁとも。

だから、わたしにとってみても教祖さまのエピソードと比べるのにはおこがましい限りではあるのですが、わたしとしてもどこへも持って行きようのない気持ちが多々あったわけです。

ここでも、もうお取次いただくしかほかありませんから、そして本当に長い間ご神前にぬかづいてご祈念させていただいたなぁとこの一年半のことを思い起こします。

やっぱりおかげになりますね、はい^_^そのようにさせていただいてきて思わせていただくことです。

すべてがスッキリというわけにはもちろんいきませんが、カッチカチに固まっていた糸くずのような問題ごとも少しずつ糸がほどけていくのを感じています。

おわりに

ここまでのことを昨日の月例祭で話させていただきました。

最後に、伴走させていただく取次者としてどんなことがあってもあなたのことを「 見捨てない・見限らない・受け止めます。だから一緒に辛抱させていただきましょう 」ということも伝えさせていただきました。

キーワードはどこへも持って行きようのない気持ちですね。そのような気持ち、抱えていらっしゃいませんか。

おかげをいただくためには理解しておいた方がよいと思うこと|宗教家の書くブログ おかげをいただくためには理解しておいた方がよいと思うこと

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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