2016年3月21日月曜日

神様なんだろ!何とかしてみろよ!!|春季霊祭を仕えさせていただいて


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


お広前に浸からせていただきながら見ていた景色

3月20日春分の日、無事に春季霊祭を仕えさせていただくことが出来ました。

昨年まではこの霊祭に併せて神さまの月例祭を仕えさせていただいておりましたが、今年から新たな試みとして、願いを込め別日とさせていただきました。

ということで日程も第四日曜日から春分の日と変えさせていただき、諸々のお繰り合わせをいただき昨日無事仕えさせていただくことが出来ました。その霊祭にて感じたことを書いてみます。

さらけ出す

わたしのことも折々にさらけ出していたつもりでしたが、なかなか伝えるというのも難しいことで、最近では、「 先生( わたしのことです )と本音で語れていない 」とか「 一緒にもがいてほしい 」だとか、そのような声を氏子さんから聴いていました。

本音で語れていないと思われていることや、一緒にもがいていると思われていないことは由々しきことだなぁとも感じました。

そして、昨日の霊祭では、祭典後におはなしがあるのですが、そのおはなしをされたある氏子さんの話された内容がご自身の精神的に苦しまれた内容でして、事前に原稿を読ませていただきながらわたし自身経験してきたことを思い出し( 覚えているのですが未だ整理できていないといった状況のもの )、おはなしの前後に参拝されたみなさんに聴いていただきました。

それは、教師になってからのことですが、いろいろなことが相重なって、もうこの心では抱えきれなくなり自分の口から驚くような言葉、暴言ですね、それらが堰を切ったように溢れだして、自分の耳で聴いてても悲しくなってくるものでした。

教師ですから、日中ご神前にいることも多かったわけですが、神様に仕える身でありながら、神様に対しても暴言を吐いていたのです。

気付いたら怒りとともに「神様なんだろ!何とかしてみろよ!!」と結構大きめな声で言っていました。ほかに参拝者があったかもしれないのに……それだけ苦しかったのだと思います。

悲しいかな、わたしの声はスーっと抜けていきました。願いが通ると言えば聞こえは良いですが、うんともすんともなく、そのあと悲しくなり、虚しくなり、涙が溢れ出てきました。

それでも何とか御用にはお使いいただいておりましたが、しばらくすると参拝者としてお広前( 祈りの場 )に入れなくなってしまったのです。取次者とりつぎしゃとしてお結界には座れるのに、参拝者としてお広前に入れない……「 こんなわたしが入ってはいけない 」という気持ちです。

そんなある日のお取次での師( 当時は師弟関係ではありませんでしたが…… )の言葉です。

こういうときこそお広前にからせてあげたいなぁ

師の教え

お広前に浸かる

字の通り、温泉に浸かるように、という意味です。

すかさず師に「 ただいまお結界での御用中ですのでこのままお広前に浸からせていただきます 」と返信すると、

いやいや、取次者としてではなく( お結界を下がって )一氏子( 参拝者 )として

……その言葉のまま、お結界を下がり、ここ数日入れなかったお広前に、師に背中を押していただきながら入らせていただきました。

本当に隅っこで一人、お広前には椅子が設置されているのですがその椅子には座らずに、ひたすらぬかづいて……

とにかく周りの目は気になりましたけれども、ただひたすらに浸からせていただきました。長い時はそれこそ4、5時間同じ場所で動かずに浸からせていただきました。

そのときに祈る内容としては「どうぞ分け御霊様わけみたまさま( わたしの魂 )がしずまりますように」これも教えていただいたことです。

そのような生活が何日か続き、お取次も折々にいただきながら次第に心が落ち着いてきました。

そして今思うのは、根っこは今もそんなに変わってないということ。だから自分が恐ろしい、という自覚が今もなおあるのです。いつ何時、心苦しくなり暴言を吐くやもわからない己。

用心せよ。わが心の鬼がわが身を責めるぞ。

教祖さまのみ教え

だから、このみ教えが痛いほど分かります。わが心の鬼。今もなお用心させていただいております。

という話をさせていただきました。聞いていた氏子さんの反応ですが、意外なものでした。

「 先生にもそういうことがあったんですね。親近感が湧きました 」。それから、「 涙が出ました 」と言われる氏子さんもいまして、とにかく話させていただいて良かったなぁというのが正直な気持ちです。

今でこそわたしの精神的な苦しみもめぐり*の中でのこと、そしてその中で暴言を吐きながらでも神様に、取次者に向かうことが出来たのも、自分で選択したかのように見えて、実際のところ動かされていたと感じるところもありまして。

当面する諸問題が、先祖のあり方や、自身の過去の行いに起因するという関係を指す。さらに、難儀の原因が、世代や時代を超えて、子孫へと受け継がれていくことも意味する。

めぐり* 『 金光教教典 用語辞典 』より

何に動かされていたかといえば、祈りです。

ご先祖さまからの祈り。もしかすると全く関係のない方の祈り( たとえば悩み苦しまれている人が助かるように、だとか )も含まれてのことだなぁと思えるようになりました。祈られてのこと、ということ。そのことも聴いていただきました。

おわりに

今でも毎日の御用どれをとってみても( このブログもしかり )自分でしているようには感じないのですが、今日新たに命をいただいたわけで、わたしとしては命をいただいた瞬間( 目覚めた瞬間 )「 今日は何が出来るでしょうか 」と思い願っているのです。

そうして何が出来るかと言えば、やはり恩返しの意味も込めて神様に祈らせていただくことをさせていただきたいと思うのです。そのことも聴いていただきましたが、とてもいろいろなことを感じる霊祭となりました。ありがたかったです。

当時のわたしの経験のことももう少し、時間をかけて整理していきたく思います。わたしの信心のルーツであるわけですから。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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