2016年3月14日月曜日

臨機応変|遠慮せずに想いを伝える大切さと、けれども心配りは必要だという気付き


おはようございます。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


臨機応変|遠慮せずに想いを伝える大切さと、けれども心配りは必要だという気付き
自分の本性を見つめる目

昨日は月例祭でした。教祖さまにお礼を申し上げる月に一度の月例祭、わたしがおはなし当番でした。その話を聴かれての氏子さんの賛否の反応を交えて……

どういう無礼をするか分からない「 凡夫ぼんぷ 」の身

一昨年金光教武蔵小杉教会の代替わりをさせていただき二代目とならせていただいてより、昨年度からおはなしの当番制を変えさせていただきました。

変える前は祭典ごとに氏子さんの信心感話が主だったのですが、少し勉強の意味も込めて教祖さまの月例祭には教祖さまにまつわるおはなしをわたしから、神さまの月例祭には神さまにまつわるおはなしを親先生( 父です:初代 )から、としました。

次のようなことをおはなししました。

教祖さまは本格的に神さまの御用に奉仕する前は農業を営んでいました。信仰心は人一倍厚く、幼少の頃から神社仏閣へ参拝したり、家でも、いたるところでも神さまに心を向けるという生活をされておりました。

当時は日柄方角を守る風習があり、教祖さまもその風習を厳密に守りながら、それでもなお神さまに心向ける生活をされていたのです。そのような教祖さまでありながら次々と家族が亡くなることになります。養父( 教祖さまは養子になられています )、義弟、実子、牛( 農家の牛は家族同然でした )と、七墓を築くことになりました。

文治( 教祖さまのこと )は金神( 祟り神と怖れられていた神様 )を避けとうざけるのではなく、むしろ神として立て仰いだ。そのうえ、方角日柄を見てもらい、それに従っても、どういう無礼をするか分からない「 凡夫ぼんぷ 」の身であることを、深く自覚していた。たび重なる苦難のなかで、自分の本性を見つめる目が備わりつつあった。

『 金光大神 』より

「 自分の本性を見つめる目 」の感性

わたしは「 自分の本性を見つめる目 」の感性が教祖さまは人一倍強かったのではと思いました。

前提として神さまから分けていただいている魂( 分け御霊様わけみたまさま )は同じわけです。わたしもあなたも……もちろん教祖さまも。

それでも何が違うのかといえば「 自分の本性を見つめる目 」の感性が大きく違ったのだろうなぁと思いました。

自分を見つめる目が備わればおかげになりますから、そしてこれは信心( 神さまに心向けること )によって感性が磨かれると教祖さまは教えてくださっているわけです。

信心と自己の改まり( 自分の本性を見つめる目 )は相乗効果で、信心→見つめる目→信心→見つめる目……と、どんどんどんどん深まっていくように思います。

すると、自分の本性がよ~く分かってきますから、自ずと神さまの心に近づくようになるのです。神さまの心に近づくと、もれなく神さまの子である人間を助けたくなります。人のお役に立とうという気持ちになる。

それでもすぐに助けられるようになるわけでもありませんので、また、もがくのです。もがきながらまた信心します。そしてまた、自分の本性を見つめる目へ、と。

実際にこの教会でもある氏子さんが、人を助けさせていただきたいこの命を使っていただきたい、と願われるようになり、ほどなく難儀な氏子が目の前に現れました。

その方を通してその氏子さんも、また、もがきながら信心を深められているようになっています。

で、ここで最も大切なこととして、その氏子さん「ありがたい」と言うのです。難儀な氏子さんの話を聴くことが出来て。

その氏子さんも少し前までは精神的にすごく悩まれて、そうしてご神縁いただき信心させていただくようになり、お取次いただかれる中でおかげいただいて、人の話を聴かせていただくまでお育ていただいたのですが、実際にそうなってみて「ありがたい」と言っているのです。

その言葉を聞いてわたしもまた「ありがたい」と思いました。

何度もブログに書いていますが、わたしも同じなのです、その氏子さんと。今でこそ宗教家として氏子さんの話を聴かせていただくお役をいただいておりますが、よく人の話が聴けるまでになったなぁ、と。

そしてわたしも同じ、毎日毎日難儀な氏子さんのお取次をさせていただき、心の底から「ありがたい」のです。

お取次の中には「どうにかしてくれ」「 助けてくれ 」「 やっぱり無理 」「 死にたい 」「 消えたい 」とどうしようもない悩みもあります。それでもわたしとしては聴かせていただき「 ありがたい 」のです。

要約ではありますが、このようなことを昨日の月例祭でおはなしさせていただきました。『 人を助ける器ではないと思っているなら大間違い、体ごと難儀な氏子へ飛び込んだら必ず自分も苦しくなるから。それでまたお取次いただいてお育ていただけばいいのですから。必ずありがたい命になりますから。おかげいただきましょう 』と付け加えて。

聞いていた氏子さんの反応は賛否両論でした。

聞いていてしんどくなった」という氏子さんもいれば、目覚めるといいますか「この命を使っていただきたいと思いました」という氏子さんもおられました。

以前、「 わたしの思う信心はこれだ- 」と声高々におはなししてしまいすごく氏子さんとの間に摩擦が生じたとき( 昨日もそうだったかもしれません^^; )師にお取次願ったことがありました。そのときの言葉です。

臨機応変に使い分けること。それもまた心配りではないでしょうか。

師の言葉

おわりに

「 この命を使っていただきたいと思いました 」と言われた氏子さんには迷うことなく難儀な方めがけて進んでいっていただけたらいいですし( 必ずおかげになると思います )、一方で「 聞いていてしんどくなった 」と言われた氏子さんには心配りが必要だなぁとあらためてお詫び申したことでした。

それでも「 しんどい 」と言ってくれるだけ、言わずに思われているよりもありがたいことなのだなぁとあらためて思いました。

自分の想いを伝えることの大切さをあらためて感じました。遠慮して言わないと伝わるものも伝わりませんから。けれども心配りは必要だということです。臨機応変に^^

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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