2016年3月22日火曜日

条件付きで信じるということと疑うということの密接な関係


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。今日も命をいただき元気に御用させていただいております^^


条件付きで信じるということと疑うということの密接な関係
信用:○○を担保にお金をお貸しします、担保の条件をもって信じるというもの

「 願って何になるの?」と言われる氏子さんがいらっしゃいます。わたしも思ったことがありますので気持ちはすごくよく分かります。

その壁はどうやったら乗り越えられるのでしょうか。わたしはどうやって乗り越えさせていただいてきたのか、経験させていただいてきたことを書いてみたいと思います。

言葉の裏に隠れた疑い

「 願って何になるの?」の裏には疑いが隠れていると思います。

疑いの対義語である信じることと、疑うこと、この二つは共存することはないと思っています。信仰では特に、相容れないです。

「 そこは信じるけどここは…… 」と言うなら、それはもう信じていないことになるなぁと思うからです。

以前、金光教教主のお取次をいただきたくて、でもいただけなくて、というときがありました。「 わたしなどが訪ねて何か応えてくれるでしょうか 」と師に問うたときがありました。そうしましたら……

それは、金光様( 金光教教主のこと )を信じていないことになる」と言葉いただきました。

あぁーわたしは金光様のことを信じていなかったんだな、と純粋に思え、後にですが信じるというのは、受け身でなくどこまでもこちらから信じていくことが必要だと思うようになりました。覚悟ですね。

それから「 条件付き 」ということを思うようになりました。ある心理学の本には「 信用 」と「 信頼 」の違いは条件付きか無条件かの違いと書いてありました。

信用が条件付きです。たとえば銀行などがそう。○○を担保にお金をお貸しします、というもの、担保の条件をもって信じるというものです。

条件付きで信じる……どうなのでしょうね。信仰でいうところの信じるという言葉の意味とは大きく違うような気がいたします。

先の師の言葉で言えば、金光様が応えてくれるなら訪ねてみますが……と、思っていたわけで、条件付きで金光様を信じようとしたところをズバッと「それは、信じていない」と言われたわけですから。

そして、もう一方の信頼は無条件です。何があっても信じるということ、です。

それは人様々さまざま

「 願って何になるの?」に戻りますが、信仰というものは信じる信じないかの違いです。もっと言えば条件付きの信じる( 信用 )では、神様を信用するということになり、何か違うように思います。信用する対象ではないように思うから。

で「 願って何になるの?」、この言葉には条件付きが隠れているように思うのです。その条件とはおかげです。

「 願って何になるの?」は、「 おかげがあれば願うよ 」と同意かと思っております。おかげくれるなら願うけど、と。おかげもくれないなら願わないよ、という思いが「 願って何になるの?」という言葉で表現されるのかと思います。

以前、教主にお届けさせていただいたことがありました。そのときのお言葉です。

わたし:願うことで何が起こるのでしょうか?

金光様:それは人様々さまざま

金光様 ある日のお取次

あくまで自分発信で願うということ。人によっては条件付きの信用かもしれませんし、無条件の信頼かもしれません。それぞれの信じ度合いが密接に関わっていると今は感じさせていただいております。はたして自分の心は、条件付きなのか、無条件なのか。

ですから、「 願って何になるの?」と問われたらそれはもう人様々さまざまとしか言えないと今は感じています。願ったらおかげになるよ^^とは言いたいですが。

おわりに

それでも「 願って何になるの?」このような質問が出ること自体、信じている信じていないは置いておいて神さまのことは意識しているのだなぁとそのことは御礼申さないといけないなぁと思わせていただきました。

天地金乃神てんちかねのかみ( 金光教の主神 )と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺みやてら、氏子の家屋敷いえやしき、みな神の地所じしょ、そのわけ知らず、方角日柄ひがらばかり見て無礼いたし、前々のめぐり合わせで難を受けおる。このたび生神金光大神いきがみこんこうだいじん( 教祖のこと )を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛はんじょういたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下かみしも立つようにいたす。

教祖さまのみ教え

願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ基本この順序です。ですから自分の願いか周りの願いかの別は置いておいて、おかげをいただいてはじめて聞く耳が持てるというものです。ですから時間を要することでもあるとは思っていますが。

靴を履いてから靴下は履かない|宗教家の書くブログ 靴を履いてから靴下は履かない

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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