2016年3月13日日曜日

生きている前提で話が進むから生きにくくなる


こんにちは。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。本日、教祖さまの月例祭、滞り無く仕えさせていただくことが出来ました。


生きている前提で話が進むから生きにくくなっている
生かされているという事実を知り、あらためて人は願うのだと感じます。

あらためて、金光教のお広前ひろまえ……ここは何をする場所?について書いてみます。

信奉者の願い礼場所、信心の稽古場所

わたしが奉仕させていただいている 金光教 では、各教会にお広前ひろまえと呼ばれる場所があります。これは必ず。

金光教はこれといって決められた形がありませんので、教会によっては教会自体の屋根も壁も内装もマチマチなのですが、お広前という場所は金光教の教会と呼ばれるところには必ずあります。ここ武蔵小杉教会にも。

そして、お広前とは、信奉者の願い礼場所、信心の稽古場所として定義されています。

一方で教祖さまは、次のように教えてくださっています。

天地金乃神てんちかねのかみの広前は世界中であるぞ

教祖さまのみ教え

天地金乃神とは金光教の神様のことです。世界中ですから、どんな場所でも願っていくことが大切と教えていただいております。お広前でなければ願えないということはないということです。

けれども何事もお稽古が必要ですね。いきなり出来るということはないと思いますので。祈りも願いも、いきなり出来るとは思いません。

そのための稽古場所がお広前になるわけです。ではなぜそうまでして願うのでしょうか、一体何を願い続ける必要があるのでしょうか。

それはわたしたちがそもそもお願いしなければ何一つ出来ない存在だからだと理解しています。

生かされている事実

こうも教えていただいてます。

わが身は神徳の中に生かされてあり

教祖さまのみ教え

生かされているのですね。そもそもが。今だけでなく、これからも、ずっと、死ぬまで。生かされている……何に……神様、天地金乃神様に、です。

日々の活動が自分の力で出来ているように思えても、実際自分の力でやっているようでも、なんてことはない生かされている前提でのこと、ということを強く思います。

生かされている前提で、出来る、出来ないを議論してみても……いかがでしょうか。

だからこそ、まず神に願うのです。何を願うのか?命をいただき続けることを願うのだと思います。話はそこからかなぁと思います。

人間関係の願いや、財の願いをしてみても、命がなければ話になりませんよね。でもだいたいがこの部分をすっ飛ばして願っていますから。生きている前提で、ということ。生かされているではなくて。

ここがおかしいなぁと思うようになりました。もちろん人間関係のおかげ、財のおかげも願った方が良いとは思いますが、その前にということを。

で、このような感覚、考え方がお広前でお稽古して、お取次をいただくことで、身についてくることだと思っています。

そうしておいおいと神様を感じるようになって、どうなるかというと、生きやすくなります。

なぜ今が生きにくいか、生きているのがしんどいのかといえば、自分たちで生きているから……そう思うから、思いたくなくても思ってしまうから、しんどくなるのだと思います。

生かされている、と感じた瞬間主体が違ってくるわけです。主体が自分から神になるはずです。させていただくという表現になってくる。

だから生きるのが楽になる。この辺りもお広前にお参りして稽古して分かってくることかと思います。

お広前でお稽古すること。はじめは違和感を覚えるかもしれません、そして見えない神様に向かっていくこともありますから怖いと感じるかもしれませんが、けれどもその先には、本当に生きやすくなります。生きやすくなりました。

おわりに

金光教のお広前……ここは何をする場所?についてから生かされている前提で諸々の活動が出来ているという事実について書いてみました。

神様に心向けて一日一日、一分一秒を生きることが人間らしい生き方とも教祖さまは教えてくださっています。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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