2016年3月9日水曜日

わたしの信心する理由と氏子さんがおかげをいただいたらフェードアウトしてしまう理由


おはようございます。宗教家の須賀院崇徳(@TSugain )です。


わたしの信心する理由と氏子さんがおかげをいただいたらフェードアウトしてしまう理由
浮き沈みある部分を……

「 喉元過ぎれば熱さを忘れる 」ということわざがありますが、信心においても本当にそうだなぁと思うことについて書いてみたいと思います。

一言で言えば「 しなければいけない 」

まず、自分自身において何で信心するようになったのかなぁと考えてみると、それは一言で言えば「 しなければいけない 」と自覚したからだと思います。

神を拝礼するのに、別に決まりはない。実意丁寧じついていねい、正直、まこと一心がかなめである。日々生かされているお礼を申し、次に、お互い凡夫ぼんぷの身で、知らず知らずにご無礼、お粗末そまつ、お気障きざわりなどをしている道理であるから、それをお断りおわび申して、それがすんだら、身の上のことを何かと実意をもってお願いさせてもらうがよい。

教祖さまのみ教え

その理由としては、生きているようで生かされている事実を知ることになったり、先ほどの教祖さまのみ教えのように、どこにどのようなご無礼お粗末が……と思い始めたら、それはお詫びしないといけないなぁとか思ったり。

人として勝手気ままに都合よく生きるのは、それはそれでそれぞれの生き方ですから、たとえば氏子さんの生き方も、わたしがとやかく言えないのですけれども、ただ自分のことを思うと「 それ、都合良すぎない 」と思うことが多々ありまして。

わたしが「 しなければいけない 」そう思えるようになるまで、丁寧に自分の立ち位置を教えていただいたり、仕込んでいただいたり、ということがあると思うのですけれども、結果日々ありがたく、今もなお信心させていただいているところあります。

と同時に、生きる喜びや、生き甲斐のことを言えば、もう以前のわたしとは比べ物にならない部分がここにはありますから、信心ありがたいなぁとは心から思うのですが、その一方で、「 それ、都合良すぎない 」と自問する面もあるわけです。

喉元過ぎれば熱さを忘れる

で、信心させていただく入り口にいらっしゃる方( 教えてもらう前、仕込んでもらう前 )は特にだと思うのですが、「 喉元過ぎれば熱さを忘れる 」という部分が大きいのかなぁと思うことがよくあります。

それはどういうことかというと、ある日を境に何か悩みが合ってすごく一生懸命にお願いされるのです。ずーっと。「 助かりたいという思いからでも神様に心向けられることができてありがたいなぁ 」と思って一生懸命に悩みを聴かせていただきます。そしてお願いさせていただきます。でも……

おかげいただいたらそれっきりなんです。本当にきれいさっぱりと。

金光教の教祖さまは「人が助かりさえすればそれで良い」と言われるぐらいですから、「 おかげいただいたらそれでいいじゃないか 」とも言えるのですが、さきほどの「 それ、都合良すぎない 」という思いが( わたしの「 我 」でしょうが )生まれてきて、相手にも求めるところがあるように感じるのです。

今まではもう本当に、働けない、人間関係がしんどい、分かってもらえない、居場所がない、友達もいない、苦しい、夜も眠れない……そこからおかげをいただいたら忙しくなるのは当然ですからね。

今までみたいにお届けする時間がなくなりお届けが出来なくなったり、お参りが出来なくなったり、だからその部分では工夫が要ると思っています。お繰り合わせをいただくことと、自ら時間を生み出す工夫と。お願いしながらではありますが。

信心の継続について、この切り口で入ると大抵が苦しくなります。ようは氏子さんにもひいてはわたしにもそれ以上に突き動かすものがないといえばそれまでなのかなぁと思います。わたしの中でも迷いが生まれたらの話です。

おかげをいただくまでの取次者(宗教家)と氏子さんとの関係性、おかげをいただいてきたこれまでの背景、その間に生まれる熱という事実がやっぱり大事なのだなぁと思います。

そして、あらためてこちらが辛抱させていただきたく思っています。

おわりに

師は「 憂い 」という言葉で表現されます。わたしの想いはそこまで高尚なものではないとは思いますけれども、綺麗サッパリと……という現実を前にすると「 なんだかな~ 」と、正直思います。

本当に「 昨日まで何だったの 」と思うほど、綺麗サッパリと。音信不通です、不思議なほど。

自分にもそういう面があるのだろうなぁとは感じつつ、少し思ったことを今の正直な気持ちとして書いてみました。以前にも同じような内容のブログを書いていました^^;→ 細くなが~く わたしの吃緊の課題です。

信心はどこまでも親子の関係ですから、親として、子の「 逃げグセ 」とか、分かりやすく言うと「 サボりグセ 」とか、分かった上でお願いしながら子についていくことが要るのだろうなぁと思います。親からガミガミ言われたらやりたくなくなりますからね。

奇跡的なおかげをいただいて「 わぁ~ 」と信心が続く人もいれば、反面綺麗サッパリあっさりとフェードアウトする人もいるという現実。

けれども、やっぱりそれは、取次者の神様とのパイプの太さ・取次者の魅力( 神様の魅力でもあり )・雰囲気( 左に同じ )などで氏子さんの今後も変わってくるのだろうなぁ、とはいつもそこに落ち着き、落ち込みもしますが、今日ここから、またお願いさせていただきたく思います。そう思えることがありがたくもあるのですが。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
須賀院崇徳(すがいんたかのり)

*twitterでも毎日1回はつぶやいてます。


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