2015年11月17日火曜日

道なかば

今、自分が「なぜ」このような状況(立場)にあるのかと
考えることがあります。

道なかば

あのとき...
こちらを選んでいたら...
どうなっていただろうか...

けれども今がある。
それがすべて、とも感じます。。



昨年の今頃は
すごく「覚悟」を意識していました。
一人追い込まれていたように思います^^;

気付けば、
あれから一年が過ぎようとしています。

この一年はどうだったろうか...

新しく子も授けていただきました。


日に日に生きるが信心なり
と教祖さまは教えてくださっております。

神様に心向けながら
日に日に生かしていただいてきました。
まぎれもない事実であります。



最近「みたま」の働きを
意識するようになりました。
自分の力など、そこにはなく
「みたま」の「働き」があるだけだな、と。

私に授けられた
神様からの「分け御霊(みたま)」
この部分が「働い」てくださっているなぁ、と。

参拝者の話を聴かせていただきながら
俯瞰的に氏子を見ながら、
また自分のありようも
俯瞰的に見ている瞬間があります。

だからお願いができる。

どうぞ氏子の話を聴かせてください、と。
お働きください、と。
私が私に対してです。



「人が助かりさえすればそれで結構である」
の教えのもと、覚悟をし
「人を助けさせてください」と願い
日に日にお育ていただいてきました。
ゆっくりとではありますが。

一日一日お育ていただいていくということです。

苦しんでいる方が
たくさんいる。
それは神様を感じないからです。
それだけは分かります。
感じられない、か
感じたくない、か...

日に日に生かしていただいていくというところに
事象としての浮き沈みはあれども、
心は沈みません。
心が沈むときは
神様を放す時だと思います。

それが一番怖い。
そう思えるようになってきました。

これを聞いて
神様から離れられない方が怖いという人もいるかもしれませんが、
落ち着いて考えたら分かることではないでしょうか。

離れられるわけもないのに...
放せるわけもないのに...
放そうとします。

放そうとしている方も
それがその方の身の丈とも思えますから
無碍にも責められず、
聴かせていただく中に
何とも悲しい気持ちが湧いてきます。
そうして
願わずにはおれないという気持ちが
湧いてくるのです。

私の「分け御霊様」の
「願わずにはおれない」という感情が生まれた
ということはありがたいことですね。

一つひとつです。

思うまま書かせていただきました。
ここまでありがとうございます。
お願いさせていただきます。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
 須賀院崇徳(すがいんたかのり)


須賀院崇徳(@TSugain)をフォローする.



ブログランキングに参加しています.
一日一回応援クリックしていただけると嬉しいです!

メンタルヘルス(全般)ランキングへ
宗教家の書くブログ




SNSでこの記事をシェアする.
シェアしていただけると嬉しいです!