2015年7月13日月曜日

何目線なのか

親身になって相談にのると言いますが
字のごとく
親の身にならせいただくというのが
困っている人が
助かっていくうえで
必要不可欠のことと思います。

何目線なのか

そのとき
いったい何目線になっているのかが
とても大切だなぁと感じさせていただきました。
親目線なのか
それとも
自分目線なのか
ということです。

分かりやすく言えば
走っている人(困っている人:子)が
走っているその先が崖だとして
こちら(助けたいと思う人:親)は
「危ない」と思って
首根っこをつかみます。
つかまれた方は
「何するんだよ」ということに
なるかと思うのです。
迷惑に感じることもあると思うのです。

後々、いよいよ
自分が走っていた先が崖だったんだ
そう気づいてから
(親に)首根っこをつかまれたことが
ありがたくも感じるのでしょうけれども
この例えのように
先が崖だったとそのように感じられる場面は
そんなにハッキリとは現れてこないのが実際かと思います。
自分の走っている先を考えること自体、
大切にもされていないでしょうし。

でも
その人のことを想い
本気で首根っこをつかめるかどうかが
とても大切だし
必要なことだと思うのです。
人が助かっていくために。

人のことを気遣い
気遣い気遣い言うべきことを
言えない場面もあります。
けれども言わないことが本当の優しさなのかな
と言うことです。

もちろんタイミングもあります。
バランスもありますね。
ずっと首根っこをつかみ続けられ
ガミガミガミガミ言われ続けられても
言われた方もたまったものではありません。
窮屈で仕方がありません。

けれどもです。
あっちも聴く耳がなかったし仕方がなかった
ではすまされない瞬間も
あるのかと感じております。


子どものSOSは待ったなしです。


子のSOSのサインの瞬間
こちらがどれだけおかげをいただいているかで決まります。
おかげをいただいている
というのは人を助けたいかと
思えるかどうかだと
感じております。

そのためには
神様におすがりしおすがりし、
まさに親目線で
自分をどこまでも放していかないと
人が助かっていく存在
まさに親にはなれないのだなぁと
感じております。



金光教の教祖様は
『人が助かりさえすれば、それでよい』
と教えられたお方です。

親になるということは
誰にでもなりうる可能性があることですね。
誰にでもです。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
 須賀院 崇徳