2014年10月13日月曜日

子供の声、その先に...

先日聞かせていただきました。

子供の声、その先に...

金光教のお広前(ひろまえ)でのこと。

お広前とは、
中央に神前、向かって左側に霊前がある
参拝された方がお祈りする場所のことです。
ここ武蔵小杉教会にもございます^^

御本部のお広前でのことでした。

そこで、
一歳になるかならないかの子供が
「アー、アー、アー」
と、それはそれは機嫌良く
言っていたそうです。

ひっそりと静まりかえったお広前...

その子供の声が気になったのか
参拝されていたある男性が、
「う゛ーん、う゛ーん」
と、子供の声を遮るように
咳払いをされたそうです。

その声に気付いた親御さんも
子供に向かって
「シー」っと
子供に静かにするようにと
促されたそうですが
とても機嫌がよかったのか
「アー、アー、アー」
と、何度も言っていたそうです。

その晩のこと...

神前で心中祈念をされていたのは教主金光様でした。

教主金光様が、
ボソッと
子供が神様とお話ししているのに
それを止めようとする氏子がおりました。
それが残念でなりません

と仰ったそうです。
ボソッと。
(五代目となる金光教教主は寡黙な方です)

私はこのエピソードを聞かせていただいて、
神様の視点というものを
改めて考えさせていただくこととなりました。

以前から、
教会内外で子供の声がするということは
元気でありがたい
とは思っていたのです。

思ってはいたのですが、
神様からの視点というものは
思いもよらなかったのです。
子供の声が(奇声に近いものも?)、
嫌な人もいるだろうなぁという感覚でした。
それがです。
神様とお話しとなったら
子供の声が、
全く別ものだと感じました。

全ては
捉え方次第、
おかげは和賀心にあり
と教えられております。

子供が声を発しているその先に
(特に小さな子かと思いますが...)
神様がいらっしゃる、
声を発するその先に
人間には見えない神様がいらっしゃる、
神様へ願っている
神様へと祈っているのだと。

そうだとしたら、
「う゛ーん、う゛ーん」
などと、
ご信心させていただいている者が
(お広前に参っている者として)
「う゛ーん、う゛ーん」

子供の
神様へのお話しを
遮るようなことは
しない
と確信した次第です。

ここでは
氏子同士のことになるのでしょうか。
取次者(宗教者)として
そのような感覚がなければ
いけないのかなぁと
あらためて
思わせていただきました。

ただ、
叱るときは叱ることも
お願いしながらですが
大切だということは
言うまでもないことだと
付け加えさせていただきます。

特に小さな子ですかね。

こちらが理解し得ないことでも
その先に神様がいらっしゃり
お話しが、
願いに、
祈りに、
おかげにと
変わっているのだと
小さな子でも
参拝することの意義を
あらためて
確かにさせていただきました。

 この記事を書いた人
 須賀院 崇徳





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