2014年6月26日木曜日

学者が人を助けたためしはない

教祖生神金光大神様は、
金光大神も無筆じゃわいの。
あんごう(あほう)でものう、
人さえ助かればらくじゃわいの。
学者が人を助けたためしはない

と教えてくださっています。

学者が人を助けたためしはない

私が無学だから言うわけでもなく、
(内心ではホッとしている部分もありますが^^;)
学者(学問)が人を助けたためしがない
ということは、
本当にそうだなと
思います。

あたり前ですが、
学問も非常に大切なことです。

学問が無くなることもありませんし、
医学でも、
今までは治らなかった病気も、
現代では治るようにも
なっていますし。
大きなことです。

けれども
教祖様が仰っているのは、
学問を武器に、
これだけ立証されているからと、
「学問があるから
人が助かるのだ」
「分からなかったことが
分かるようになったのだから
この人は助かる」
という
こちら側の
学問への寄りかかり具合というか、
人の助かりとは
そういうことではないと、
明治の時代に
教祖様は
言葉残されています。

私が感じますに、
人が生きていく上で大切なことは、
生き甲斐だと感じています。
何かをしてあげたい、は
立派な生き甲斐です。

自分の命を喜べるどうかも、
「生きてて良かった〜」と、
誰かのために生きてみたい、
行動に起こしてみて、
それから
感謝の言葉をいただいたりと、
何度も言いますが、
正しい、間違いでは
ないわけです。

人が「生きたい」と
そう思えたなら、
その人は助かっていると、
言えるのではないかと
思います。

もともと持ち合わせた神心、
誰の心にもあるものです。
そう教えられています。

ご信心によって、
その神心が十二分に
現れてまいりますように、
「死にたい」が「生きたい」と
思えるように、私としては
そのお手伝いをさせていただきたいと
思っております。

これは学問があるから
どうのこうのということでは
ないように感じています。

人を助けたい人(心)が
目の前にいるか(あるか)どうかでは
ないでしょうか。

いかがでしょうか。

 この記事を書いた人
 須賀院 崇徳





1年前の記事『分からせてください』